わたしが十七八になって、歌舞伎芝居をみるようになってからだった。梅幸のお富が舞台の上で、ひっかけ帯で横にすわりながらおゆきがそういうときとよく似た声の調子でおまはんと云ったとき、すべてが氷解した。母が、子供たちをおゆきのところへ行かせたがらなかった母らしい潔癖と偏見の意味もわかった。もうその頃は、おゆきは、別のところに引越して、養子の世話になっていた。
 更に何年かたったとき、何かの雑誌で「ねぶか」という落語をよんだ。落語をこのむ江戸庶民の感覚で、奥女中あがりを女房にした長屋の男の困却を諧謔の主題にしたものだった。奥女中だった女が、長屋ものの女房になってもまだ勿体ぶったお女中言葉をつかっている。そのみのない横柄ぶりが武士大名への諷刺として可笑しく笑わせるのだった。その「ねぶか」のなかに、長屋の男が新しく来る女房と、取り膳でお茶づけをたべるたのしさを空想して、俺がザラザラのガアサガアサとたべると、女房はさぞやさしくチンチロリンのサアラサアラとたべるだろうという描写があった。そこをよんで、わたしはすぐおゆきを思い出した。おゆきのお茶づけとあの箸を思い出した。
 おゆきが団子坂の下に住んでいたのは明治四十年より前のことだった。おゆきの住居や習慣は、樋口一葉が「にごりえ」などでかいた雰囲気の中のものだった。そして、鏑木《かぶらぎ》清方の插画の風情のものだった。そういうことがわかったのは、ゆきのおまはんの由来を理解したよりもあとのことだし、「ねぶか」よりもあとのことであった。
 父方の祖母、母方の祖母が、わたしの幼い時代に徳川時代から明治初年への物語を色こく刻みこませた人々であった。いまわたしたちが封建社会の崩壊期として理解している幕末と、中途半端な開化期として理解している明治初年についてのさまざまの物語りをもって。おゆきは、二人の祖母のだれも示さなかったやりかたで、明治初年の東京の庶民ぐらしの気分をつたえたたった一人の女だった。
 六つ七つのわたしは、竹すだれのかかった軒ちかく縫いものをしているおゆきのわきにころがっておゆきの家についていて、自分の家のとはちがう匂いを感じ、西日を顔にうけながらチンチンチンチンと、何かをたたいているような音をきいていた。その音は、前のうちの中からきこえた。
「あれ何の音?」
「さあ……おおかた錺屋《かざりや》さんで何かやっているんでしょうよ」
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