い答えをする夜の女が日本のほかのどこにいるだろう。
 こういう娘たちの大部分は戦争中、徴用で軍需工場に働いていた。そのときの彼女たちは、断髪に日の丸はちまきをしめて、日本の誇る産業戦士であった――寮でしらみ[#「しらみ」に傍点]にくわれながらも。彼女たちの働く姿は新聞に映画にうつされた。あなたがたの双肩に日本の勝利はゆだねられています、第一線の花形です、というほめ言葉を、そのころはじめてきいたのだった。
 終戦のとき、それからあと、これら第一線の花形たちの生活はどうなったろう。女は家庭にかえれと、職場を失った。大部分が戦災をうけ、親を失っている。淫売によって生きなければならない若い女の暮しぶりが、まるで民主日本のシムボルであるかのように描かれ、うつされ、ゴシップされている。
 性の解放がジャーナリズムの上に誇張されているのに、現実の恋愛もたのしい結婚生活の可能もむずかしいために、街の女の生態は、かたぎの若い男や女の性感情にさえ動揺的な刺戟となっている。かたぎの娘と街の娘とをかぎる一本の線は、経済問題と性的好奇心とのために絶えず心理的に不安にゆられているのだ。しかし、一方には夜の娘を、あらゆる商業的な文化の上でもてあそび、間接な淫蕩に浸りながら、その半面で電車に乗るなとけがらわしがる感情がある。ラク町の姐御誰々を正道にたちかえらせる勧善懲悪美談の趣味がある。だがその同じ世間は、すべての女性を売淫からまもる女子の職場確保のためにたたかう組合の活動に冷淡だし、賃上げに反感をもつし、いつまでたっても元ラク町の姐御誰々と、本人を絶望させるほど封建的な物見だかさを示してもいる。
 わたしたちの文化の一面には、すくなくともこのような矛盾がある。資本主義の経済破局は売笑婦を殖やすという国際的な事実を土台として、その売笑婦の社会的な扱われかた、売笑婦自身の感情に、日本の封建の尾がつよくひかれているのである。これは売笑婦についての場合にかぎらない。日本のすべての問題にこの二重性がつきまとっている。
 現実をこのように見ている眼をうつして、講和条約にそなえる日本として装われ、観光日本としてポーズされている日本を見たとき、わたしたちがそこに発見するのはなんだろう。シルク・ショウにあらわれている振袖姿の日本娘であり、文化交換として生花、茶、日本舞踊を習っている外国婦人の姿であり、仏教の僧正になった外国紳士の姿である。さもなければあんまり早くアメリカ風になったという題でうつされている植民地的ハイカラーな日本娘のスナップがある。それはサン・アクメの写真にとられて外国の諸新聞や雑誌にのせられている。
 これらの現象を見くらべたとき、すべての真面目なひとの心に切実な疑問の声がおこらずにはいまいと思う。わたしたち日本の文化はどこにあるのか、と。

          四

 ほんとに、わたしたちにとって親愛で創造的で身についた日本の文化は、どこにあるというのだろう。
 思いめぐらすと、われわれがこれまで、文化について考える態度のなかには重大な欠点があった。それぞれの時代の社会事情につれて、次々に生れて来るいろいろな現象に対して、その現象だけとりあげ、いわゆる文化の問題としてとやかくいって来た。そして、一つ一つの現象の根本によこたわっている社会事情にまでつっこんでふれることは、社会問題、経済、政治問題の領域とされる常識があった。文化の問題は、そのため、いつも手ぎれいに表面だけを撫ですぎて、したがって一種の文字上のおしゃべりに終るかたむきがつよかった。
 いま、わたしたちは、文化そのものに対して一つの新しい態度をきめる時期に来ていると思う。社会事情の推移につれて生れ消える現象をおっかけて批判したり要望してはおっつかない段階にたっている。わたしたち日本の実直な市民として、一生の大部分を家事についやす主婦として、日常の生活に、教育に、読書や娯楽に、どういう文化を求めているかということを、はっきり自分で知らなければならないと思う。そして、求めている文化は、どういう社会生活の上に可能であるかという点についても具体的につかんでゆかなければならないと思う。
 きょうの文化上の欲求の一つとして、現代の日本の経済事情と、その経済事情にどう処してゆくかという政治の方法に無関係なものがあるだろうか。主婦が、わずかのひまを見つけて読みたい本は、一般の物価上りで三冊が一冊にされつつある。その一冊にさらに五パーセントの取引税がかかる。子供たちに買ってやる絵本にもその五パーセントはついて来る。国会でも問題になったこのたちのわるい大衆課税は、政府としてやむをえないこととして押しきった。理由は天文学的数字の予算をまかなえないからであり、そのなかで小さくない部分を占めている終戦処理費というものを出さなければならないからとされている。
 この処理費というものはどういう風にしてどこへつかわれるものなのだろう。戦時中の軍備施設を、二度とつかえないようにこわすだけに、そんな金がかかるのだろうか。ポツダム宣言を受諾して武装放棄をした日本は、どういう口実でも日本としてまた武装を行う理由はもっていないはずである。わたしたち日本の婦人の大部分は戦争を欲していないのだ。分別のある人民の大部分が、この上の惨禍を歓迎しようとはしていない。
 きょうこそ、日本のわたしたちは、自分たちの求めているものを、はっきり自覚しなければならないと思う。わたしたちの求めているのが民族の平和と自立であり、生活の安定と人間らしい文化のよろこびである以上、自分たちの目標から目をはなさず、希望を実現させるあらゆる可能のためにわたしたちに出来るところから尽力してゆかなければうそだと思う。
 これまで文化は、生活にゆとりのある階層の占有にまかされて来た。侵略戦争がはじめられて、それまでの平和と自由をのぞむ文化の本質が邪魔になりはじめたとき、谷川徹三氏の有名な文化平衡論が出た。日本に、少数の人の占有する高い文化があり、一方にいわゆる講談社文化がはびこっていることはまちがっている。文化は平衡をもたなければならない。おくれた低い文化はたかまり、狭い高い文化はもっと一般化されなければならないというのが谷川氏の論旨であった。ところが、当時の情報局文化統制は、講談社、主婦之友を極端な軍国主義に動員することで好戦意識を宣伝していたから、谷川氏の平衡論はその現実のなかで、日本のより高い理性をもつ文化能力を抹殺する理論づけになった。戦争について意見をもつ文化は、少数者の高すぎる文化として圧殺された。
 日本が降伏して、日本の民主化がいわれはじめた。新しい日本の社会生活へ生れかわろうとする人民の真実な希望がうかがわれるらしく見えた。しかし三年たったいま、わたしたちのぐるりにある光景はなんだろう。三年たつうちに、民主化されようとする波をかいくぐって生きのびて来た旧い権力者たちは、日本の封建性というものをさかて[#「さかて」に傍点]にとって、日本の民主化を威脅しはじめている。一九四六年の日本でこそ、封建的なものは、民主的なものに反する性質をもっていることが一般の感情に明瞭にうけとられていたし、対立する本質の言葉としてつかわれてもいた。現在では、すべての封建的な意図が、その表現はかならず日本の民主化と復興のため、といういいまわしをもちはじめた。
 最近あらわれた元看守のファシストである暗殺者さえ、属する団体は民主化同盟という名をもっている。もういっそう手のこんでいる政治的な場面では、封建的というどんな表現さえもつかわずに、日本の封建性が旧勢力の利益のために最大限につかわれている。日本の独占資本家たちが、より強大な国際資本におんぶして大衆生活は二の次として生きのびる決心をしてから、それらの人々の近代化[#「近代化」に傍点]は急テンポにすすんだ。日本の港からあがって来た資本主義の独占的な本質にくっついて動くに必要な程度にまでいち早く自身の独占資本性を推進させた。この過程に、日本につよくのこっている封建性が十分利用されている。政治は政治家がやるものだというふるい考えかた、文化人は直接政治にはふれないという消極的な態度。それらは日本の社会の歴史のなかではどれも一種の封建性であるといえる。
 利にさとい人々は、日本の文化性にあるこの不幸な沈黙とうけみの習慣をとらえて、この国会の会期中、どっさりの反民主的な法案を上程している。そのなかには当然言論出版の官僚統制をもたらす用紙割当事務庁法案があり、ラジオ法案がある。国会の人さえ知らないうちに用意されたこれらの法案は、形式上国会の屋根をくぐっただけで、事実上は官僚の手でこねあげられ、出来上った法律として権力をもってわたしたちの前に出されて来る。法律は政府がこしらえるもの、その政府はなお大きい力におされているもの、悲しくもあきらめて徳川時代の農民のように、その人々を養い利潤させる年貢ばかりをさし出して、茫然とことのなりゆきを見ているしか、わたしたちにすることはないわけだろうか。
 日本の大衆は、イエスとノーとを明瞭につかいわけることを知らないということが、二年ほど前、多くの外国人から注目された。また、苦しいときでも、悲しいときでも日本人はあいまいな微笑を顔にうかべている。それはみんな意志表示の習慣をもっていないことを語る特徴だと指摘された。そして日本が民主的な社会となるためには、日本の男も女も、はっきりめいめいの意志と判断とにたってイエスかノーかを表現し、拒絶したいことは、あいまいに笑ってすぎないではっきり拒絶するようにならなければいけないと忠告された。
 きょうの生活を考えると、文化というものは、つくづくわたしたちの全生活をひっくるめての問題になっていると思う。日本の民衆として運命そのものを語る題目となって来ている。日本の文化は日本のわたしたちをさえ戸惑わせるような伝統の特殊性から解放されなければならない。世界の平和の確保のうちにめいめいの家庭の平和の保障が存在することを実感する主婦の感情こそ、日本の未来を明るく支える文化の感覚である。権力を失うまいとするものが、どんなに卑しく膝をかがめて港々に出ばろうとも、着実真摯な男女市民の人生は、個人と民族の基本的人権のありどころを見失わないで、粘りづよく現実に、自主的で民主的な運命の展開のためにたたかわれてゆかなければならないと思う。その人生の美しさに感動しうる精神こそ文化性というにふさわしいとおもう。[#地付き]〔一九四八年九月〕



底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「女性改造」
   1948(昭和23)年9月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング