とによりそれを追懐することによって恢復しつつ新らしい生活を歩み出します。
友達が出来ましょう、話し相手なしでは――彼のことを話す相手なしでは――いられません。そして、最も自然な、在り得べき想像として、一人の信頼すべき異性が、自分の最も近い朋友と成ったと仮定します。
その場合、その人に対する友情は、自分の語り度い、忘れ得ない愛する者を、倶に愛し、認めてくれる、という点に源泉を持っているのです。
けれども、そういう場合、どうして、その人を透して彼を愛す、彼を愛する余りその人をも混同して愛の亢奮の裡に捲き込んでしまうことがないといえましょう。
私の考えに於て、この点が最も重大なのです。若し自分が真個に愛のあるべき状態に迄達しておれば、かような錯誤は決して起り得べきものではないのです。
愛は、何も、貴方を愛しています、または、愛して、愛して、今も愛していますというような告白や表現を望みはせず、云おうともしないものです。
けれども、執念が、云いたがります。返事をし、自分の眼を見返し、輝く愛を認めて欲しく思い、ひとりでにそう行動します。
そこで、右のような場合は、決して無いものだとは思えないのです。
左様にして、彼を倶に愛すが故に朋友となり、進んで愛人同士のような感情の表現を持つように成った時、自分はそれをいかなる心持を以て反省するでしょうか。
第一、自分の真に愛しているのは、明かに彼なのです。此人ではない。此人は、ただ、倶に語る、という意味で大切な、愛すべき人であったのです。
それ故、たとい、或る瞬間の具体的表現が、此人を愛する場合と、形に於て同様ではあっても、真実の意味で、それは、彼に求めたこと、彼から期待したことであるのです。
人間が、時に、或る一時的なエモーションから、最も愛する者との間にのみ自ら許している種々な動作を、誤っても為し得ると云うことは、恐ろしい、嫌厭以上のことです。
自分は、どれ程それを自らの深奥にある愛に対して愧じ、苦しむことでしょう。
若しその朋友が、秀でた叡智と洞察とを以て人間を見得る人なら、事は未然に防がれると同時に、自己の進退を弁えていましょう。
けれども、人間は、必ずいつも正義によって行動するものとは定っていません。
その人が、それによって自分を愛しているのだと誤信するように成れば、自己にとって許すべからざる誤りは
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