し方」
「ほんとう?――でもこんな本の広告に啄木の歌を使う時代なのね」
 すると、Yが低い声でその歌をよんでいたが、
「――どうです――皮と身と離るゝ体我持てば――っていうのは。下の句をつけませんか」
「そうね……」
「何がいいでしょう……あ、こんなのはどうでしょう」
 網野さんが云わない先から自分の考えのおかしさにふき出し、袂で顔を抑えながら笑い笑い、
「利殖の本も買ふ気になれり」
と下の句をつけた。
「え? 利殖の本も買ふ気になれり?」
 ははは! それは傑作だ、と私共は涙の出る程大笑いをした。
「皮と身と離るゝ体我もてば利殖の本も買ふ気になれり」
 うまかったな、網野さんはなかなかうまい、と百花園のお成座敷の椽でお茶を飲みつつ更に先夜の笑いを新にしたのだが、その時網野さんのユーモアということが、作品にもつづいて私の頭に浮んで来た。
「皮と身と離るゝ体我持てば利殖の本も買ふ気になれり」
 思わず――その体の持主が私共だということ、それに利殖の本を結びつけた機智の面白さ――笑ってしまう滑稽さがあるが、このユーモアには何処やら淋しさがこもっているようではないか。小説集『光子』の中に集められている短篇でよいと思ったのが沢山あり、そのどれもが――例えば「棕」「質問」「時代」「巡査」など皆、その一種のユーモアによって印象に残されている。そのユーモアの網野さんが生粋の都会人であることや、細かい神経を持っていることや、一抹の淋しさを漂わした感情の所有者であることなどが直に窺われる。都会人らしい――それも町家の――心持に教養の加った気分で生活している間に、ひょい、ひょいと人生の明暗に触れる。そこにあの静かな少し淋しいようなユーモアが生じる。網野さんの芸術には勿論他に種々の要素があるとしても、この点はかなり主な独自性の一つだと思う。まあ例えば地味な色糸で繍った玉繍いのように粒一つが入念な筆致と、そのユーモアとが結びついて澄んだ心の境地を示している場合、小さい作品でも味が深い。同じ集の中の「海」などという沈んだちっとも上皮のきらつかない美がある。

          四

 暗くなってから、私共三人は百花園を出た。百花園の末枯れた蓮池の畔を歩いていた頃から大分空模様が怪しくなり、蝉の鳴く、秋草の戦ぐ夕焼空で夏の末らしい遠雷がしていた。帰りは白鬚から蒸気船で吾妻橋まで戻る積りで、暗
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング