化面における新日本主義は、或る種の政治的傾向が非科学性と結びつき従来極めて素朴な形であらわれていた。常識はそれに対して比較的容易に疑問を感じ且つそれを表白して来た。今回の顔ぶれはアカデミックな部分において、これまでの弱点が補強されている。しかも、長谷川如是閑氏が参加していることや、会則も綱領もないということなどは、何か質的に変化がもたらされたような誤解を一般に与え得、たしかに文芸懇話会よりは、時代的色調において一進しているのである。
日本がその現実の歴史に即して周密に探求されることを望むことでは、私も決して人後におちない誠意をもつものの一人である。林房雄氏は談として「会則も綱領もない」ことで会の本質の自由を強調し、文芸懇話会の延長と見られては困る、何物の援助も受けない独自的存在であり、自然にこの会の成立が各人に要求されて出来たものであると語っている。
が現在この会に会則、綱領のないことが、直ちに性質の自由を意味すると解釈しなければならないとしたら、誰しも当惑するのではないだろうか。何故ならこの度結成された「新日本文化の会」の構成要素は、アカデミックな面において強味を加えて来ていると共に、やはり一片ならぬ矛盾、自己撞着を包蔵していることが見える。例えば中河与一氏の万葉精神に対する主観的傾倒と佐佐木信綱氏が万葉学者として抱いていられる万葉精神に対する客観的見解とは必ずしも全部一致しがたいと見るのが当然であろう。また、保田与重郎君の幻想と小宮豊隆氏の高度な知的ディレッタンティズムが肩と肩とを抱き合わせ得ないことも自明である。さらに長谷川如是閑氏が、文化の発展との関係において民衆のもつ自由と統制をどう見ているかということと、林房雄氏の日本観との間に或る開きがあることは一目瞭然なのである。こう見て来ると、今のところこれらアカデミックな人々の体面感を傷つけずに参与を可能ならしめるような表現では、会則や綱領がきめられないというところが、実際の事情ではなかろうか。会則、綱領がないと公言されていることは、一人の男が、私に主義というものはありませんと告白したと同様本来この上なく危っかしいことなのである。別な言葉でいえば、その時々の風の吹きまわしに吹きまわされることをみずから語っているのである。アカデミックな要素が加わったことで、一部の人々の極端な事大的追従が些か制せられるとあれば無意味ではないようなものの、長谷川如是閑氏が『セルパン』八月号の小論でいっている「保護[#「保護」に傍点]」と「自由」との現代日本における現実的性格は、この団体に参加した如是閑氏自身にとって次第にどのように発見されてゆくか自他ともに見ものであると思う。[#地付き]〔一九三七年七月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「東京日日新聞」
1937(昭和12)年7月17〜21日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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