近頃の話題
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)且《かつ》

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(例)創作[#「創作」に傍点]の頭には
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        ワインガルトナー夫人の指揮

 その晩は、ベートーヴェンばかりの曲目で、ワインガルトナー博士は第七と田園交響楽などを指揮し、カルメン夫人はレオノーレの序曲を指揮することになっていた。
 私は音楽について素人なのであるけれども、ワインガルトナーの指揮した田園交響楽は日本で初めて聴いた興味ある演奏であった。普通この作品は、ベートーヴェンのロマンティックな自然への態度を正面に出して解釈されているような印象を受けているが、ワインガルトナーは、生活風俗描写的に、色彩ゆたかに動的に表現していて大変面白かった。やっぱりなかなか偉い指揮者なのだと思った。それに、このひとの指揮ぶりは特徴がつよくて、オーケストラに向って指揮棒が縦に縦にと働きかけて行く。繊細、強靭、且《かつ》疳がつよくて、音に対する態度は貴族的であり命令的である。嵩よりも線の感じのつよい指揮の態度なのであった。
 私の好みに必ずしもあうとはいえないながらその完成ぶり、大家ぶりにやっぱり感服した。
 黒い服に栗色の髪をもったカルメン夫人は良人のワインガルトナー博士に与えられた拍手とは、又おのずから異った歓迎の拍手の嵐の裡に台へのぼり、レオノーレを指揮しはじめたのであるが、初めの調子から何だかぴったりせず、演奏がすすむにつれて、私の心持にぼんやりした疑いが起って来た。
 カルメン夫人が、技術的には先生であり良人であるワインガルトナーの道を踏んで進んで来ているのは当然であろう。棒の扱いかたや、左手の拇指と小指とに独得な力のこめかたをして、オーケストラに呼びかけてゆく癖など、ワインガルトナーそっくりである。けれども、専門的な言葉ではああいうのを何というか、カルメン夫人はオーケストラから各部分の音をそれぞれの独自的な意味で引き出して来るという印象を与えず、分析され切れない音響のかたまりを次から次へ並べて行く感じである。ワインガルトナーで縦に切りこんで行っているところをカルメン夫人の方は棒は同じように動かしながら、横へ、音の面を撫で、圧えているようなのである。しまりがない。善良であるが立体性が足りず、音のつかまえかたが漠然としている。
 ヨーロッパでも、婦人の指揮者は二人か三人しかいないそうである。そういう点からも私はカルメン夫人の指揮から受けた印象でいろいろ女の芸術と生活とを考えさせられた。
 カルメン夫人はいかにも人柄のよい、教養のあるひとらしく、『婦人公論』などに書いた文章などよむと、むしろ音楽を文学的に、哲学的に感じすぎているようなところさえうかがわれる。夫人は、その教養でワインガルトナーが芸術家として到達しているところの価値を十分に理解しているのであろう。技術の高さをも評価しているのであろう。だが気質や年齢やの相異から技術的にもつべき特質というものもワインガルトナーと夫人の芸術家としての生活は、教養で音楽を深く理解する範囲では今日でもすでに傑れているに相異ないが、自分の生活で音をつかんで来るという、人間生活の風雨と芸術の疾風にさらされた味は感じられないのである。
 師匠のいらない文学と音楽とはちがうから、卓抜な先生を良人としているカルメン夫人は一面最もよい環境にいるわけである。ところが、この条件が却って夫人の持ちものを未熟なままにふっきらせ切らない。完成した形が外から筺をはめているのである。夫人の現在の悲劇は恐らく玄人仲間でそれをありのまま彼女に告げるものがないであろう彼女の地位にある。

        あの頃と今日

『文芸』の八月号に除村吉太郎氏を中心に現在のソヴェト同盟の文学と作家生活とを語る座談会記事がある。いろいろの点から興味ふかく読んだひとが尠くなかったろうと思う。社会生活の質が変って来ていることから読者大衆と作家との関係が、従前のロシアのように、また現に他の諸国の事情がそうであるように、文化的水準で隔離されたものでなくなって来て、狭義での批評家の批評と作家とのいきさつが今日では変化していることなどが話され、日本でも文学の大衆化がいわれている折から、なかなか示唆するところを含んでいる。日本では文学のわかる批評家が問題にしないような通俗小説が読者の低められている文化力の上で稼いでいるのと違って、例えば「鋼鉄は如何に鍛えられたか」が、所謂《いわゆる》批評家の注意をひかぬ以前から、すでに大衆的な支持を得ていたというような事実が、文学作品の批評の規準の問題にも触れて多くを暗示するのである。
 我々の周囲では、昨今、批評に規準または指導性がありやなしやということ
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