、ある作品についても各人各様の批評が活溌におこなわれている。プロレタリア作家とブルジョア作家との本質的なちがいがぼやけて、リアリズムの解釈にもある種の混乱が認められるのが、今日の現実なのである。
 プロレタリア文学に結ばれている者の間に、戸坂氏の書かれたように文学批評とは別に、それを批評するもっと客観的な「本当の批評」の出現を待望するのでなく、文学批評そのものに、新たな、発展的な客観性の確立を求める気分の醸成されていることは、見のがせないことである。その新しい動力となり得る気分を理解し、作品活動の中に正当に導き出して行くことこそ、「現実そのものから現実を描き」批判する方法を学ぶことをたてまえとする社会主義的リアリズムの任務ではなかろうか。
 従来私が、自分の書くものについての批評に対して、多く沈黙を守っていたのには、それぞれの時代によってそれぞれ理由があった。
 私がブルジョア作家として仕事をしていた頃は、ブルジョア文壇の当然の性質として批評は主観的な印象批評が多かった。私は、個人的なものの考え方で、すべての毀誉褒貶《きよほうへん》を皆自分のこやしとして、自分が正しいと思う方へひたすら伸びてゆくこと、そして、よかれあしかれ自分の生きっぷりと、そこから生れる仕事で批評をつき抜いて行くこと、それを心がけとしてやっていた。
 幸にも、そのやぼな生活力で、おぼつかないながら一つの発展の可能性をとらえ、プロレタリア文学運動に参加するようになってからは、そういう個人的な考えかたはなくなった。たとえば、過去において、私がもっともいいたいことを持っていた例のつむじ風[#「つむじ風」に傍点]時代に、あえて私が黙っていたのは、かりにも一つの団体の中で、自分の熱情の幼稚な爆発のために混乱を一層ひどくし、且つそれを個人的なものにしてはいけないと考えたからであった。
 この頃になって、私はそこからもう一歩出た心持でいる。自分の書くものに対して与えられるものとは限らず、批評のあるものに対しては、必要に応じて自分の見解をあきらかにしてゆくのが本当の態度であろうと考えている。
 なぜなら、作家にとっては書くものと実生活との統一において、いわば私的生活というものはないし、社会との関係にあっては作家は常に公の立場にあるものである。また批評も本来は対象を個人にのみ置くものでない。そして私は、本質上、プロレタリア文学の領域にしか、文学を全体として押しすすめる客観的批評は確立し得ないものであることを、近頃ますますつよく信じるからである。
[#地付き]〔一九三四年十月〕



底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「文芸評論」
   1934(昭和9)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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