館と大看板を下げたその家もしずかである。朝飯のとき前もってきめられていた方の室へ落付くと、石段町の裏の眺めはなかなか風情があった。古風なその一室は、余り高くない裏の崖を右手にして、正面は屋根ごしに、眺望がひらけている。遙かむこうに、もっくりと、この地方独特に孤立した山が一つ見えていてその前景は柿が色づき、女郎花《おみなえし》が咲く細かい街裏の情景である。
 私たちの用事は、この町の公会堂にあった。ひるになったとき、先発している人の弁当をもって、私が公会堂へゆくことになった。
「どう行ったらいいのかしらん」
「この石段をお下りになって――」
「いや、それより上の方よりが近路じゃ」
 奥から出て来た主人らしい人が、大鳥居のきわから左へ入って、うねうね山道を歩いてゆけば、ひとりでに公会堂の上へ出るからと教えてくれた。
 暖かい十月の六日で、セルで汗ばむ天気であった。弁当の包を片手に下げ、家のわきから左に入ると、男の子供が何人もかたまって遊んでいる小さい農家の前庭へ入った。その前庭から斜めに苔のついた石段が見えている。
「この道をゆくと公会堂へでますか?」
 よその言葉で見馴れぬ女にそうきかれて、子供たちは黙って合点をしたまま、道をあけてくれた。
 いかにも農家の裏山へ通じると云うおもむきの、苔のついた石段をのぼると低い切りどおし道になった。温暖な地方は共通なものと見えてその小道にしげっている羊歯の生え工合などが伊豆の山道を思いおこさせた。季節であればこのこみちにもりんどうの花が咲いたりするだろうか。
 農家のよこ道を通りすぎたりして、人目がくれのその小道は、いつか前方になだらかにひろがる斜面を見おろすところにでた。四国の樹らしく、幹の軽く高いところに梢をひろげた楓がたくさん植わり、桜もある広い芝生へ出た。若い女のひとが三人芝生の隅にかたまっておひるをたべている。背後にどっしりとした御守殿風の建物があった。大玄関にまばらな人かげが見える。それが、琴平の公会堂なのであった。
 藪かげのこみちを歩きながら、この俗っぽい、商人の薄情な琴平に、こういう裏みちもある、ということをなつかしく感じた。慾とくをはなれた年月の間この町にも苔のついた石段が、穏和な生活の道としてあることに安らぎを感じた。
 数年前、弟が出征したとき、母は、武運長久の願をかけに、山口からわざわざ琴平詣りをした。五
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