も御忘れあそばすだろうと存じますと……それもかなしみの一つでございました。
 いつまでたっても光君様は御なおりになりませんでした。春がすぎ夏となって又秋をむかえても、……随分長い久しい間でございましたが、その間、私は幾度か正気のなくっていらっしゃる光君に思ってる事をうちあけて申しあげて仕舞おうかと存じましたが、それもわるい事と思う心がおさえつけてしまって居りました。私は只生れながらに一生光君さまの召使として理性の力で悲しいつらい事をたえて暮して行かなければならないものに定まって居たのだと思いきめて居りました。そしたら、今日、この悲しい、はかない事に出来《でく》わしました。私はこれも運命と存じて居ります。私の今まで思って居りました事は光君さまの御かくれと一緒に弔[#「弔」に「(ママ)」の注記]むられてしまった事でございますが、私は思った事がございますので、明らさまに恥かしさをしのんで申しあげます。女としてあまり大胆すぎる事で又あまり露骨すぎて居りましょうけれ共私は今日となって心にわだかまるかくし事のあるのは、と存じましたので……、私は、この愚な女らしくない女を人より以上に御いたわり下さいますのにすがって御心のひろい殿に申しあげたのでございます。どうぞ御ゆるし下さいまして……いつかは御わびをする時もあろうかと存じます」
 斯んな風にはっきりと書いてあった。殿はなんとも云うことは出来なかった。今時の女、それにまだ二十にもならない女が大胆に自分の思って居ることを人に告げる、その事も主人の弟を思って居た事を主に告げる、あまり大胆な仕業であるが――
 殿は斯う思って迷った、けれ共常からどこか毛色の変った学問の深い考のある女の事だから何か感じた事だろうと思って居た。けれ共最終の、
「いつかは御わびをする事もあろうかと存じます」
と云うのがきにかかってもしかすると書おきででもありぁしないかとさえ思った。けれ共、あの位考のある女が今死んでどう云うわけがあるかと云う事がわかって居るであろうと思って幾分かの安心は持って居た。
 其の晩はもとより寝床に入ったものはなかった。外の女達はしずんだかおをして居ながら――又経をくりかえしながら退屈しのぎに時々は低い声でしゃべって居たけれ共、紅一人は持仏の室に入ったきり夜一夜かねをならし、通る細いしおらしい声で経をよんで居た。経の切れ目切れ目にはかすかに啜泣きするらしい様子が女達の心を引きしめてだらしなく居ねぶるものなどは一人もなかった。
 夜が明けて各々のかおがはっきり見えるようになると又かなしみも明るみにハッキリかおをだしてきのうの今頃と云う感じがたれの頭にでもあった。化粧もうっすり黒い衣をきなくちゃならないのがまだこの部屋に来てまもない女等は辛いように思われた。早い内に殿も身に喪服を着て、
「どんな様子だい、いくら悲しいと云ってもあんまり力をおとさないでおくれ」
 斯う云われると今更のように涙が流れ出して云い合せに女は泣き伏した。
 持仏の間の中では相変らず鐘の声と経の声がきこえる。
「誰だいあすこに入って居るのは?」
「紅でございましょう、昨夜は夜中入って居ったのでございます」
と云ったので戸を細目にあけて中に入ると香の香りのもやの様にただよう中に水晶の珠数をつまぐりキチンと坐って経をあげて居る横がおは紅にちがいない、貴いほど、気味のわるいほどひきしまった、すごい美くしい様子で有った。足音はしずかに衣ずれは立てわきに坐ると、殿はおどろいたように「オヤ」と云った。
 無理ではない今まで丈にあまって居たかみは思いきりよく根元からきられてそのしとやかななで肩の上に、ぞっくりそろった末をゆるがして居る、そのつや、その香りはもと通り紫とかがやき紫の香りを立てて居るのがしおらしかった。
 経は紅の口からまだほとばしって出る、まるでわきに人の居ないように……殿はその姿を絵像を見るような人間ばなれをした気持で見て居た。経の切れ目になった時、紅はつと坐を下って手を支えた。
「昨日はまことに……妙なものを御目にかけまして相すみませんでした、どうぞ御ゆるし下さいまして。御覧の通りになりますのに人にかくした、ことに殿様のようにいろいろ御恩になって居ります御方にかくした事が有ってはと存じましたので……」
 ひくいけれども落ついた立派な態度と声でいった。乳母も髪をおろしてしまった。母君もおろしてしまいたいと云って居られる。こんな事を思った殿は、冷い風の吹いて来るような心持で、
「私は、御前のたれよりもまことの心をもって居て呉れたのを有難く思う、今まで有った事、私はその事についてしたお前の行がいかにも立派であったと思う。私は死んだ人にかわって御前のつくして呉れる心地を感謝するのだから――」
 紅はだまってきいて居た。
「有難うござい
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