とつれない紫の君の上を思って自分がその人だったらなどと思う女もないではなかった。送られた女君はそれを一目細い目を開いて見ただけで童のおもちゃにと何にも知らない小供の手にゆずられるのであった。

        (六)[#「(六)」は縦中横]

 長い間うつらうつらとして寝て許り居た光君は熱の高い時などにはききとれないような声で、
「紫の君、紫の君」
とうわごとを云うほどなので女達はみんな、
「何の因果のこんなうきめを見るのだろう」
とその声のきこえる毎にうつむいて額髪をぬらして居た。乳母などはその声をきくと一所にふるえた声で、
「何と云う方だろう、何と云う方だろう」
と云って西の対をにらんで居た。熱はなかなか下らないでうわごと許り云って居るので母君は心配して、
「この里の東の海辺の家は大変景色がよいそうだから
 そこへ行くようにすすめてお呉れ」
と云ってよこしたので乳母は、
「『この里の東の海辺の家は大変よい景色だそうだから行って見たら』と西の対から云っておよこしになりましたから行って御覧になりませんか」
と云ってすすめると光君は青ざめて凄いまで美くしさのました顔を上げて、
「そんなむごい事は云わないでお呉れ。どうせ死ぬ命ならせめてあの人の居る家で死にたいのだから。私はどんなにそれをのぞんで居るだろう」
と云って目を閉じて涙を流して居るので、
「じょうだんにもそんな事をおっしゃってはいけません。どうぞ貴方の御身御案じ申し上げて居る多数の家の人のためにとお思になっていらっしゃって下さいませ、キット私はあとから彼の方もすすめてあちらの家にあげる様にいたしますから」
と二日も四日もかかってすすめたので、
「それではキットそうしてお呉れ私は行きたくもないところへそれ許りをたのしみにして行くのだ。若し約束が違えば目を開いて二度お前の顔を見ることはないだろう。じょうだんだと思ってきいてお呉れでない」
とさんざん物悲しい事をならべたあげくとうとう行くことに返事されたのでにわかに一所に行く供人をえらんだり何かかにか用意するのに一週間許りは夢のように立っていよいよその日になった。美くしく化粧した光君の姿が車の中に入った時あとにのこる女達は急になさけない気持に、
「お大切に遊ばす様に」
「あんまり御歎きにならない様に」
「ここに残って御身の上を御案じ申しあげて居るものを御忘れなく」

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