がら、ゆき子は、
「本当にあなたはいつも瑞々しいねえ、暑い時はなおさら綺麗だ」
手早く井戸からくみ立ての冷たい水に梅酢をおとしてすすめた。瀧子は伊達巻姿のまま、息もつかずそのコップをあけた。
「ああ、やっとこれで正気にかえった! 御馳走さま」
そして、ハンケチで生え際を押えながら、瀧子が、
「あなた、狭谷町の山口さんから、何か話きいているの?」
と言い出すや、
「アラ、もう聞いているの」
いかにも他意なくはしゃいだ口調で、ゆき子は、
「でも私、実は困っちゃっているのさ」
人のよい、嘘のつけない当惑の皺をよせた。
「あの山口さんてひとは、信用もあるし、よく出来た男なんだけれど、どうも一つこまったことがあってね、そいであなたのことをたのまれながらつい渋っていたの」
瀧子は、我知らず団扇づかいを早めながら、
「ゆうべ、来たんですよ、突然」と云った。
「へえ。そうお? 元の細君だった女が、どんな女でも入れてみろ、きっと出してみせるって言っているっていう話があるんでね」
真面目な友情から、ゆき子は「私、山口さんに言ったのさ、その点はどうなんですって、をれをはっきり整理してからでなけりゃ、私としては瀧子さんには話がもち出せませんて言ったんだのに――ふーん、行ったの!」
ゆき子の好意はよくわかったし、それを出しぬいてひとり暮しのところへ直接来た山口の心底に何かいやな押しづよさが感じられるのであるが、元の妻であった女がそんなことを言っているということも、滑稽じみて莫迦《ばか》らしかった。
「そりゃあの人にしてみれば、あなたに承諾されれば全く申し分がないだろうけれど――私ひとつ女の側から訊いてみよう、ね、あなたが下らなくひっかかっちゃ私もくやしいもの」
十時すぎて、たたんだ袴を風呂敷づつみにして持ち、かりた単衣帯をちょっとしめて帰って来た瀧子が駅の改札口を出ようとしたら、
「やあ、おそいですな」
売店の横から立って、ワイシャツに上衣なし姿の山口が近よって来た。笑いの中に好奇心を現わして二人を見ている売店の女は、朝夕そこを通って出入りしている村人全体の顔馴染である。挨拶をして、そのままさっさと駅前へ出る瀧子を追って山口は並んで歩いた。
「実はさっきちょっとおよりしたんだったが、御不在だったから――きのうの話は、いかがです、お考えがつきましたか」
瀧子は馬をはなした荷馬車が置いてある乾物屋の軒下に立ちどまってしまった。
「いずれゆっくり御返事いたしますけれど、今夜はもうおそいし、私も困りますから……五十八分でおかえりでしょう?」
「どうも――もうちっと僕の人格を信じて下すってもいいでしょう」
ハッハッハと山口は笑ってタバコに火をつけるのであるが、瀧子はそこから一足も動こうとしなかった。
山口の後姿が本当に改札口を入ったのを見届けてから、瀧子は何かむっとした心持で足早に家にかえった。狭い村の暮しの中で言われることは知れている。そんなことは知りぬいている山口として、することが気に染まないのであった。
講習が終りに近づくにつれて、瀧子は忙しくなって来た。村にも北支への召集が下って女子青年の慰問袋作りが補習学校を中心にはじまった。生徒代表を引率して出征する兵を送りに出ることも、女教師の間で順番に割当てられた。県当局主催の時局問題講演会が屡々《しばしば》催された。教師は出席しなければならないことになっている。
狭谷町公会堂で、時局精神振興講演会があった晩、瀧子は、ラジオの特別のニュースの声が流れている往来を駅までゆき子と歩いた。
「こないだの帯、ついまだかえさないですまないわね」
「そりゃかまわないけれど――あっちの方、どうした?」
「どうって」
瀧子は、一種の厭悪をもって、今夜も役員席に納って彼方此方に目を配っていた山口の白いカラーにくびられている喉たんこのところを思い起した。
「あのひとったら、私の心持さえきまれば、内祝言でも早くしたいと言うんだけれど……」
「なかなか敏腕だし、ほかに難はないんだけどねえ」
ゆき子は笑いもせず、はじめの細君が病気になったら、山口がその病気になった細君を背負って実家へ行って、一言も口をきかずに家の入口へ置いてかえって来てしまったという話をした。
「ほんとに、ひとっことも利かずだってさ。……どういうんだろ」
その女がなおった時、山口はもう二度目の女を入れていて、しかもまた初めの妻とよりが戻り、二度目の妻の出たのはそれが原因なのであった。
瀧子は、きちんと畳んだハンケチをもっている手を仄白い自分の無邪気な丸顔の前でふるようにして、
「もういい! もういい!」
と、つよく言った。「先からやいやい言うのに、ろくなのはないにきまっている――売屋敷とおんなじだわ」
山口の方は、この頃のいそがしさ
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