けでも、ブルジョア国の工場学校とソヴェト同盟の工場学校との違いはどうでしょう! ソヴェト同盟では、本当に強い、社会主義の世の中を建設してゆく闘士をつくるための工場学校です。日本の工場学校と云えば体のいい徒弟養成所か、さもなければ製糸所の女工さんなどをプロレタリアの女として目ざまさない為に、いろんなブルジョアくさい女学校の型ばかりの真似をして、役にも立たない作文だの、活花だの、作法だので労働の中から自ずと湧く階級的な心持を胡魔化すのです。さもなければ、後藤静香の勤労学校のようにひどい山師の儲け仕事なのです。
それから又、高岡只一はソヴェト同盟の裁判と監獄についても語りました。ソヴェトの裁判が公開であるということ、監獄が、後れた労働者をよい労働者に仕上げて出すためのところと考えられているということ、獄衣などないこと等、こまかく一つ一つ日本の有様とひき比べての演説は実に聞いていて飽きません。たとえば共産党の公判が、一応は公開だが、真実は暗黒裁判であると杉浦啓一も高岡只一も云いましたが、私にもそれはそうだと思われました。このようにためになり、あますところなくソヴェト同盟について、プロレタリアが政権をとったらどういう世の中になるかということを話されるのを、大衆が職場から団体で押しかけてでも来て聴けるとしたらどんなでしょう! また、この眼で凋びた顔をして可笑しげな帽子をのせているブルジョア裁判官と、雄々しくプロレタリアの幸福のために闘う闘士たちの姿とを比べて見たとき、われわれの心に湧くのはどんな力でしょう! いろんな新聞は、宮城裁判長が大変偉そうに書いているが、それは事実でないということが暫く公判をきいていると私でさえ分りました。何と云うか、てんで相手ではないんです。高岡只一がモスコーで支那人かと思われた。と云うといろいろ為になる陳述の間は質問一つせず静まりかえっていた宮城裁判長が、例の鼻にかかった声で「ヨーロッパで日本人が支那人に間違えられるのは珍しいこっちゃない。どこででもそうだ」とやっと半畳を入れます。すると高岡只一はすぐ「そうだそうですね。しかしモスコーで、労働者が支那人かときくのは、他のブルジョア国でのように軽蔑してきくのではない。支那革命に対してそれだけソヴェト同盟の大衆が注意を払い支持しているということの証拠である」と、はっきり大衆の立場から、裁判長の半畳を訂正
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