もない。そういうことを、女のひとは念頭に置かないで暮せないらしい。外見は、物静で、ちんまりしているけれど、内部で、そういう些事に労する神経は並大抵でないらしい。なかなか窮屈なことと思う。
 女の人が、総体経済家で、きれいずきで、家政的に育て上げられているのは、一寸傍から見れば、共に生活する男の人の幸福のようだが、右を向いても左を向いても、母、妻、姉妹皆同一の型でちんまり纏っているとうんざりと見え、京都の男は遊ぶ。
 遊びの場処も、亦伝統で都合よく出来ているというが、そのように都合よく遊べる場処にする丈、遊び熱が、京男に強いと云えよう。心理的に原因をさがすと、家庭の女性が余りドメスティケートされすぎ、極端に云うと永代女中頭みたいな点。都市の活動が緩慢で、時間と精力にゆとりがある故。――全く少し感情の強い現世的な人間が、あの整った自然の風景、静かな平らな、どこまでも見通しの利く市街、眠たい、しきたりずくめの生活に入ったら、何処ぞでグンと刺戟され情熱の放散を仕たいと切に望むだろう。そういう超日常を欲する心を、一いきに、古都の宝である芸術鑑賞にむけるだけの精神力の活溌さは概して失われているらし
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