リーナ・イワーノヴナ、よくレオニード・グレゴリウィッチに事情をお話しなさいませよ、若い人の心は寛大だから、きっと貴女の御満足の行くように計らってお貰いになれますよ」
 発送掛の小僧や事務員、さっきの給仕娘まで今は一斉に仕事をやめ、深い好奇心に輝いて、ジェルテルスキー自身にもまだ訳の分らない話を眺めている。彼は、
「失礼ですが、此方に椅子がありますから」
と、二人の女を応接間に通した。がらんとした白壁の裾には、荒繩で束った日露時報の返品が塵にまみれて積んである。弾機《ばね》もない堅い椅子が四五脚、むき出しの円卓子《まるテーブル》の周囲に乱雑に置いてあった。その一つを腰の下に引きよせるや否や、ブーキン夫人は新しい勢いで云いだした。
「レオニード・グレゴリウィッチ、どうか貴方、可哀そうなマリーナ・イワーノヴナの忠実な騎士になって上げて下さい、ね、お拒みなさりはしませんわね」
 ジェルテルスキーは、黒い洋袴を穿《は》いた脚を組みながら、丁寧に碧い眼を見開いて対手を見守った。
「|失礼です《イズウィニーチェ》が、夫人《マダム》、私はまだちっともお話の内容がわからないんですが」
「まあ本当に! 私、いつも熱中するとこうなんですの、そしては宅に驢馬《ろば》っていわれるんですの――ホッホホホ」
 何故この夫人ばかりは、ナデージュタ・ペトローヴナと呼ばれず、マダム・ブーキンと云うのか誰も理由を知らなかった。
 彼女は名刺にマダム・ブーキンと刷らせた。ジェルテルスキーが、上海で始めて彼女に紹介された時、彼女は、何か特種な称号でも云うように、
「ええ、私マダム・ブーキンと申しますの、どうぞよろしく」
と紅をさした頬で微笑《わら》った。髪の黒い、黒い眼のキラキラした痩せぎすの彼女にとって、マダム・ブーキンというのは頬に紅をさすのと同じに、一つの趣味に過ぎないのだろう。ジェルテルスキーは、蒲田でこの夫人の若い愛人になったことがあった。――撮映されたのだ。――
 非常に豊富な間投詞と詠歎との間からジェルテルスキーが得た知識は、マリーナ・イワーノヴナが、夫のエーゴル・マクシモヴィッチと激しい夫婦喧嘩をしたこと、その原因はエーゴル・マクシモヴィッチがマリーナから借りて返さない三百円の金にあること、もう二度と帰らない決心で家を飛び出して来たと云う事実であった。
「もう絶望のどん底で私のところへ今朝いらっしったんですの、一緒に泣いてしまいましたわ。ねえ、マリーナ・イワーノヴナ、私も女ですよ、あなたの辛いお心がひとごととは思えませんわ。――それでね、レオニード・グレゴリーウィッチ、お願いと申しますのはね、あなた当分、この不幸な方を保護して上げて下さいませんこと?」
 ジェルテルスキーは、咽喉仏《のどぼとけ》を引き下げるようにして低い声で答えた。
「私の力にかなうことなら悦《よろこ》んでお力になります」
 が、そう云い終ると同時に、彼の艶のない白っぽい眉毛の生えた額際を我にもあらず薄赧くした。たった一間しかない住居のこと、彼の衣嚢《ポケット》にある一枚の十円札のことなどが、瞬間彼の頭を掠めたのであった。
 彼が赧くなると、マダム・ブーキンも一寸上気しながら、大仰に吐息をついた。
「私、出来ることなら切角来て下すったんですもの、家へ幾日でもいていただきたいと思いますわ。どんなにまた仕合せにおなりになるまで、傍にいて慰めてお上げしたいでしょう。――でも……」
 マダム・ブーキンは若い娘のような身振りで膝の上に擦れた手提袋の紐を引っぱった。
「ああ、みんな元のようではないんですものね、それに私のところには小さいものもいますし――」
 ジェルテルスキーは、これまで下手にばかり自分の身を置いてつき合って来た二人の年長の女たちの間に挾まれ、進退|谷《きわ》まった。彼は、二人のどちらにも、世話と云えば世話になったことがあるのであった。マダム・ブーキンは彼女の映画会社へ、餓死しそうになっていた彼を紹介して呉れた。マリーナ・イワーノヴナは夫婦とも裁縫師で、ジェルテルスキーは妻のための内職を、マリーナ・イワーノヴナのところから貰って来ていた。今もいる。――恐らく彼が、片手でルパシカの胸を抱え、右手で頻りに金髪を撫でつつ、決心しかねている今の瞬間、若いダーシェンカは、手ミシンを廻しながら、子供服の袖でもつけているであろう。
 マリーナ・イワーノヴナは、殆ど一口も物を云わないでかけていた。物を云ったら太った体じゅうの悲しみと絶望が爆発するのを恐れて唇を結んでいるようであった。ただ、目をはなさずジェルテルスキーの顔を見守った。何とつよく見ることだ。充血した二つの目と蒼黄色く荒れた二つの頬とで、彼女は答を待っている。――マダム・ブーキンもすべて云うだけの事は云ってしまった。そして、彼の口許を見
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