にはかえす」
「じゃそれまで待ちましょう。本当に、抑々《そもそも》あなたの云うことを真に受けたばっかりにこんなことになってしまった。――金はあるんですとも! 勿論あるのさ。それをかくして置いて私のをへつるんでしょう」
「じゃあ、どうでもするがいい」
エーゴルは憤ってマンドリンをとり上げ、彼の声のように甲高な絃《いと》を掻きならした。
「さ! レオニード・グレゴリウィッチ、久しぶりでどうです」
ジェルテルスキーは、戸棚からギターを出し一つ一つの響きを貪欲にたのしみながら調子を合わせ始めた。間に、エーゴルは妻に向って呟いた。
「あとの責任は私の知ったことじゃないぞ」
マリーナが、夫の意味を諒解して、はっとする間もなく、
「さ一つ『雪の野はただ一面』」
雪の野はただ一面白い……白い
灰色の遠い空の下まで。
――灰色の遠い空の下まで……
ボロン、ボロン、ギターの音の裡から、身震いするように悲しげなマンドリンの旋律が、安葡萄酒と石油ストウブの匂いとで暖められた狭い室内を流れた。
私はきのう窓から見た
一人の旅人が、黒く行く姿を
足跡が深く雪に遺《のこ》るのを……
階下の六畳では、行火《あんか》に当りながらせきがその音楽を聴いていた。うめはもう寝ている。厠へ通う人に覗かれないように、部屋の二方へ幕を張り廻してあった。継ぎはぎな幕の上に半分だけある大きな熨斗《のし》や、賛江《さんえ》と染め出された字が、十燭の電燈に照らされている。げんのしょうこ[#「げんのしょうこ」に傍点]を煎じた日向くさいような匂がその辺に漂っていた。
長く引っぱって呻くように唄う言葉は分らないが、震えながら身を揉むようなマンドリンの音と、愁わしげに優しい低い音で絡み合うギターの響は、せきの凋《しな》びた胸にも一種の心持をかき立てるようであった。下町の人間らしい音曲ずきから暫く耳を傾けていたせきは、軈て、顔を顰めながら、艶も抜けたニッケルの簪《かんざし》で自棄《やけ》に半白の結び髪の根を掻いた。
「全くやんなっちゃうねえ」
思案に暮れた独言《ひとりごと》に、この夜中で応えるのは、死んだ嫁が清元のさらいで貰った引き幕の片破《かたわ》ればかりだ。
「全くやんなっちゃう」
今日風呂へ行くと、八百友の女房が来ていた。世間話の末、
「おばさんところの異人さん、いつお産です? なかなかこれで二階をお貸しなさるのもお世話ですねえ」
そう云われた時、せきは自分の耳を信じられなかった。
「え?」
「あの様子じゃいずれ近々お目出度でしょうねえ。――でも西洋人の赤坊、キューピーさんみたいで可愛いそうだから、おばさん却ってお慰みかもしれませんよ」
せきは、自分の迂闊《うかつ》さに呆れて、そこそこに湯をきり上げて来た。間借人に対してはいつもあれ程要心深い自分がどうしてそれに目をつけなかっただろう。日本服さえ着ていたら、どんなに隠したって見破ってやれたのに! せきは、異人の女のあの大きな白い体と、異人臭さ、手を洗わない事等を思うと、お産が、人間並みのお産で済まなそうに厭わしかった。しかも、自分の頭の上で――フッ! フッ! それこそ七里《しちり》けっぱい。七里けっぱい。
――けれども、せきの困るのはここであった。どうして体よく追い払おう。せきは、始めて言葉の通じない不便を痛感した。日本語でなら、うまく気を損ねないように何とでも云う法がある。男の異人の眼の碧さ、あの通り碧い眼をして、ひよめきをヒクヒクさせるだろう赤児を思うと、せきは異様な恐怖さえ感じるのであった。
もう締めて横になろうとした時、計らず一つ妙案が浮んだ。自分の家の物干だあもの、洗濯物の金盥を持って、水口から登ろうと、二階から出ようと誰に苦情を云われる義理はない訳ではないか。五月蠅《うるさ》がって出るのは彼方の勝手だ。――決心に満足を感じ、せきは誰|憚《はばか》るところない大欠伸《おおあくび》を一つし、徐ろに寝床へ這い込んだ。
二階から聞えて来る合奏は、いつか節がかわった。葡萄酒が少し廻って来たジェルテルスキーとエーゴルは、互の楽器から溢れる響に心を奪われ、我を忘れてマズルカを弾いていた。ダーリヤとマリーナの頬は燃えた。二人の女は寝台に並び、足拍子を踏みつつ、つよく情熱的に肩を揺って手をうった。
底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第三巻」河出書房
1952(昭和27)年2月発行
初出:「女性」
1927(昭和2)年7月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年9月25日作成
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