ん」
弟から金をうけとると、宏子は玄関へ出て靴をはいた。
「すっかり帰っちゃうの?」
うしろに立って姉が靴をはくのを見ていた順二郎がきいた。
「ええ。――だって……。平気だろう?」
「僕はいいさ」
宏子は、お茶の水駅に向って本郷通りの夜店の出ていない側をよって歩いて行った。土曜日の晩らしく、むこう側の明るい書店に白線入りの制帽をかぶった数人の学生の姿が見えたり露店の花屋の前でむき出しの電燈に顔を近々と照らされながら並んで佇んで何か云っている夫婦づれの姿も見える。宏子は合外套のポケットへ手をさしこんで、自分にかかわりのない遠いところにある風景でも眺めるような眼付で、折々賑やかな方を見ながら歩いていた。苦しい気持は複雑な思い出で過去へまで拡がった。苦しい、口では説明しきれないような心持の絡み合いを、宏子は初めて母との間に経験するのではなかった。
宏子が女学校の二年ばかりの時であった。父親の泰造が、滅多にないことだのに家で何か特別な報告の製作をしなければならないことになった。その仕事のために富岡という三十前後の技術家が通って来ることになった。宏子が学校からかえって来る頃は丁度富岡も休
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