「山口が云ってたんだろう? きのう会った。例によって例のごとしだね、未来のプラウダ主筆だっていうんだから意気は壮とすべしさ」
煙草に火をつけて、光井は腹の下に坐蒲団をいれて畳へ腹這いになった。
「そう云えば、交叉点のところで各務の娘に会ったよ。むこうじゃ気がつかなかったらしいけど――」
「そうかい」
母方の遠縁で、重吉は暫くそこの家にいた。電気会社の重役のその家では、重吉に書生の仕事をさせるのを当然のことと考えていた。
光井はいくらか好奇心を動かされた表情で、
「こっちの方へ来ることなんかあるのかい」
ときいた。
「音楽の教師が、どっか、寺の裏の方にいるらしいんだ」
「ふーん。よらないのかい。ここにいるのは知ってるんだろう」
「よるもんか!」
重吉は健康な白い歯を見せて拘泥もしていないように笑い出した。
「年ごろんなって来たら、どうも傾向がわるいよ」
その言葉に光井も笑い出した。同級の、やはり研究会へ出たりしている学生の中には、美校の女学生と同棲している者などもある。光井自身は、女学校へ通うようになった妹と一軒もって暮しているのであった。光井は、腹の下にしいていた坐蒲団を今度は頭の後ろに枕にして、仰向きにころがりながら、
「女は影響するなあ」
真面目に感情をもって呟いた。
「塩田の生活なんて、何か暗いものがあるよ。あいつが研究会に割合出たりしているの、そういう暗いものからの反撥が作用していると思うね」
下宿している家の主婦の末っ子が、うしろから見ると塩田そっくりの歩きつきをする。そのことを光井はストリンドベリイの小説のように云った。
「俺は、あのちびが出て来ると何だかぞっとするね」
重吉自身は、少年らしい淡々とした初恋の思い出や、地方の中学生らしい汽車の乗降りのロマンティックな恋心や、高校時代のマントの翼の下に娘の肩を大事に入れてやって雪の夜道を歩きまわったような、責任感と少年ぽい恋着の錯綜した感傷をも通って来ていた。先輩に当る文芸批評家が、新しい時代の黎明と青春の愛惜と重吉の才能への傾倒を、恋愛的な情熱で表現して重吉を深く考えさせたこともあった。重吉は彼らしい率直さと誠意と熱情とで或る女と性的な経験をも持ったが、現在は彼の内部でそれがひとまず落着を得ていた。現在のところ重吉のそういう方面は単純化されていて、彼が自分の恋愛や結婚に対して、はっきり認
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