な思いをしてまで学校をやってゆくだけ自分の頭に自信がありません。幸僕も体の方は兄さんに負けないつもりだから、僕は兄さんの手足となって家のために働くつもりです。僕のようなたかの知れたものが、現在の家の事情でいくらかでも学資をつかうよりは、その分も兄さんにつかって貰った方が有意義だと信じるのですが如何でしょう。兄さんの将来の目ざましい成功は故郷の何人も期待して疑いません。中央の最高学府の生活は金もいるでしょうから、僕は兄さんが少しの金でも有益につかって下さると思えばうれしいです。
重吉の刻みめの深い、しっかりした顔だちの上で優しさと苦しげな表情とが混った。家運挽回と結びつけて、少年時代から重吉にかけられているこの期待のために、重吉は決して単純な学生気質で暮せなかった。重吉の思い出のはじまりの情景には、或る午後ドタドタと土間に踏みこんで来た執達吏、家財道具や家の鴨居にまで貼られた差押えの札、家の前の往来で真昼間行われた競売とそのまわりの人だかりがやきつけられていた。
高校時代、重吉は既に貧困の社会的な理由を理解していたし、それを踏んまえて立っていたが、不規則な食事のために旺盛な肉体は不調和を起して、奇妙な神経痛に苦しんだりした。
親たちが、昔広国屋と称した名主の家名に愛着している心持や家運を挽回させようと日夜焦慮して、重吉を唯一の希望の門としていることも、競売を目撃し、その時の親たちの感情を幼いながら共にわかちあった彼には無理ないこととして思いやられているのであった。重吉が経済学部に籍をおいていること、傍ら文学の仕事に心を打ちこみ、なお進歩的な青年らしい社会の動きに参加している気持の裏には、これらの事情を悉く慎重に思いめぐらしての上での決意がこめられているのであった。今に重吉が井沢郡から代議士にうって出て見ろ、最高点をとるにきまっとる、と云う周囲の焙りつくような待ち遠しい目を身に受けながら、重吉は寡黙に、快活に温い頑強さで、自分がそれらの人々の希望している通りの者には決してならないことを自覚して暮しているのであった。
重吉は、故郷の家の有様を思いながら、白カナキンの日よけのかかっている窓越しに外を眺めた。表通りの紙屋と豆腐屋の裏が重吉の窓に向っている。豆腐屋の裏二階の羽目はどういうわけかあくどい萌黄色のペンキで塗られていた。何年もの風雨で曝《さら》され、もはやはげ
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