知らず固唾をのんでいる間の心持。――
余りこんでいない省線電車に腰かけて、郊外の夜を疾走する車体の動揺につれ、吊皮が並んで規則正しく白い環をあっちへこっちへとゆすられているのを眺めていた宏子の若い真面目で清潔な顔の上に、心の深いところから湧いて、音になって外へはきこえない呻きのような反抗の表情が通りすぎた。
そこの座敷には綺麗な桜んぼを盛った硝子の鉢があった。庭に桜の大木があって、その青葉が陽に透けているのが窓から眺められた。母の使いを云いつけられた宏子が富岡の家へ来ていた。富岡はあぐらをかいた膝の中に宏子を抱いて、短いおかっぱの髪と頬っぺたとへ一どきに自分の髭を剃ってある顔を押しつけた。そして、耳のなかへ、
「宏ちゃん、僕が好き? 僕を愛している?」
と囁いた。宏子はこっくりと合点をした。「じゃ、その証拠をくれる?」宏子はこくりと合点した。
それからよほど経った或る日の午後、宏子が学校からの帰り、家へ曲る蕎麦《そば》屋の角を入ると、むこうから富岡が同じ道をこっちへ向ってやって来た。宏子には遠くからそれが分ったが、地べたを向いて変にいそぎ足で来る富岡は殆どぶつかりそうに近づく迄、宏子に気づかなかった。本束の下にメリンス風呂敷の裁縫包を抱えている宏子は、立ち止りながら子供らしい調子で、
「何いそいでいるの、家へ来たの?」
と云った。地べたを見て歩いて来た富岡の顔色は宏子が見ても病気のように蒼くて、眼が血走った様子をしている。富岡は宏子もおちおち目に入れていられない風で、曖昧な意味のはっきりしない言葉をつぶやくと、はっきり宏子をよけるようにしてまた急ぎ足で行ってしまった。何事かがあった。そう感じられた。
家へ入ってみると、客間のドアがあけっぱなしになっていた。そして、瑛子がソファの前にこちら向きに立っている。両手を後に組んで、白い顔をしゃんとこっちへ向けて、怒った気の亢《たか》ぶりが現れたままの瞬きをして、入って行く宏子を見た。宏子は、
「どうしたの」
と云った。
「富岡って男は――実に下らない!」
瑛子は、一人前の大人に向って云うように率直な大胆な言葉で娘に云った。
「今帰ったばかりなんだが――お金がどうしても二百円とかいるんだとさ。奥さん、何とかして下されば一生何でもあなたの云うとおりになりますって、跪いて、ひとの手にキッスをしたりして、馬鹿馬鹿しい!」
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