と飛んでいる。アンテナを張っている線のガイシが、暗澹として凄く美しいその空の色との対照で油絵具の白をぬたくって描いたように異常に目立っている。
さっきから温室の前に立った順二郎が仰向いて眺めているのは、この荒天に、風にさからい、流されつつ舞っている一羽の鳶である。灰色の雲の走る中空で鳶は或る時は一枚の薄い板片のように見えた。それが或る角度へ変ると真黒に翼の形や、躯の形が浮立って見える。ずっと南の方の空にもう一羽翔んでいた。それはもっと強情に正面から風にさからっていて、暫く空の同じ点にやっと浮いていたと思うと、そのまま垂直に空の高みまで舞い上った。そして、見えなくなってしまった。そっちの空にサイカチの裸の梢が揺れていて、風は益々迅く雲を飛ばしている。荒れている早春の自然の風景の中には、順二郎の心に名状の出来ない喜悦と苦悩の混りあった感動を与える力が漲っていた。鳶が忽然として舞いあがってしまった。その後に雲ばかり走っている空の寂しさにさえ、彼の感情を牽きつけて陶酔させるようなものがあるのである。
絣の筒っぽに黒メリンスの兵児帯を巻きつけている順二郎は、温室の床の三脚に腰をおろし嵐の音に耳を傾けた。風の音は順二郎の心の中にもある。自然の嵐は威厳をもって圧倒的に正々堂々と、順二郎の内部の旋風はやや臆病に、逡巡をもって、しかも避け難い力に押されて、互に響き合い、ひきよせ合っているようだ。その年の順二郎と宏子の短い正月休暇は奇妙な工合に終った。或る晩、温室用の石炭の話が出た。台所の横にある炭小舎からいちいち運ぶのは面倒くさいから、温室の横へトタンのさしかけを作ろうと順二郎が云い出したのであった。
「じゃ大川へ電話をかけて人足でもよこさせなきゃなるまい?」瑛子が云った。
「いいえ。僕自分でやる。何でもないもん。――それに――僕温室のことではなるたけお金つかわないことにしたんだ」
順二郎の節倹なことは家じゅうに有名であった。植物の種を植木会社からとりよせるにしても二つ三つカタログを照らし合わせて、抜萃《ばっすい》をつくって、瑛子に書きつけを示し、これが一番いいから幾ら幾らと二円三円の金でも出して貰う。順二郎のは、しわいのではなくて、気質から来る周密なやりかたなのであった。そのときも瑛子は愛情と満足とを面に湛えて、息子を眺めた。
「そりゃ結構だけれど――」
不図、疑問を感じた
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