しているんです、下の弟妹たちを私が見てやらなけりゃならないもんだから。卑怯かもしれないけれど、もし私どうにかされたりすると本当に困るわ」宏子は返事のしようもなかった。
「――大丈夫なのかしら」
「私にきいたって、無理だわ、そうでしょう?」
 塚元の言葉は、何だかねばっこい不快な感じを宏子に与えた。そんなことがあってから五日ばかり後、宏子は再び思いがけない上級の川原にタイプライタア練習室の外で呼びとめられた。川原は、
「ちょっと、加賀山さん『欅』のことで用があるんだけれど」
と、宏子を、レコードに合わして何台ものタイプライタアが鳴っている壁の外の不用なテーブルなどが重ねてある一隅へつれ込んだ。
「あのね、妙なこときくようだけれど、おととい、いつもの、やったんでしょう? はる子さん何故だか今度は私に知らして下さらなかったんですけど……」
 当惑を感じながら宏子は揺がない注意を集中した視線で川原の浅黒い顔を見守った。
「はる子さん、何故知らして下さらなかったんでしょう」
 偽りでない苦しげな表情が、頬骨の高いどっちかというと不器量な川原の面に湛えられた。
「私何だか……苦しいの! 私、何かしたんでしょうか、あなたに分らないかしら。分ったら教えて下さらない、ね?」
 苦痛を感じながら宏子は、
「おとといってのは私も知らないんですけど――何か都合があったんじゃないのかしら」
と事実とは多少違う答えをした。
 これらの細かいながらそれぞれの原因や内容をもった出来事は、学校内の動揺している空気と共に宏子の心に深く印象され、蓄積されて行った。はる子は、目立たないようにと苦心しながら屡々《しばしば》外出した。そして宏子は、その間にはる子のために作文の代作をし、教科書に書入れをしてやる。これらの時期を通じ、宏子は自分の性質とはる子の性格との相異と、相異しながらまたどんなに近いかということをこれ迄よりはっきりと自覚した。同じ経験に出会っても、はる子はそのことからじかに自分の感情を動かされることがないらしく、すっかり順序のきまっている考えかたに従ってそのことの性質、筋とでもいうようなものを抽き出して、その対策に何の躊躇もなく頭が向いて行く。学校の空気が動き出して以来、はる子のこの特長は緊張して目立った。宏子の方はそうでなかった。一つずつの印象が、その情景、眼付、響のまま鮮明に心にのこった。
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