ん」
 弟から金をうけとると、宏子は玄関へ出て靴をはいた。
「すっかり帰っちゃうの?」
 うしろに立って姉が靴をはくのを見ていた順二郎がきいた。
「ええ。――だって……。平気だろう?」
「僕はいいさ」
 宏子は、お茶の水駅に向って本郷通りの夜店の出ていない側をよって歩いて行った。土曜日の晩らしく、むこう側の明るい書店に白線入りの制帽をかぶった数人の学生の姿が見えたり露店の花屋の前でむき出しの電燈に顔を近々と照らされながら並んで佇んで何か云っている夫婦づれの姿も見える。宏子は合外套のポケットへ手をさしこんで、自分にかかわりのない遠いところにある風景でも眺めるような眼付で、折々賑やかな方を見ながら歩いていた。苦しい気持は複雑な思い出で過去へまで拡がった。苦しい、口では説明しきれないような心持の絡み合いを、宏子は初めて母との間に経験するのではなかった。
 宏子が女学校の二年ばかりの時であった。父親の泰造が、滅多にないことだのに家で何か特別な報告の製作をしなければならないことになった。その仕事のために富岡という三十前後の技術家が通って来ることになった。宏子が学校からかえって来る頃は丁度富岡も休む時間で、彼には紅茶とトウストが出された。そして、初めは宏子が白いブラウズの上からつった紺サージのスカアトをひろげて、とんび足に坐って自分の茶碗をかきまわしている前で、女中がそれらのものを盆にのせて、仕事場になっていた客間へ運んで行ったが、いつか、富岡も食堂へよばれて一緒に休むようになった。子供は絶対に入ってはいけないことになっていた仕事場へ、宏子もたまに行って見るようになり、数ヵ月して、その仕事が終った時は、土曜日の夜というと加賀山の家へ富岡が現れるしきたりになった。
 泰造はいつも多忙で、かえりが十二時過ることはその頃も今も同じであった。順二郎は小さかったから、九時すぎの客間で喋っているのは富岡と瑛子と宵っぱりな宏子だけであった。濃茶色の布張りのソファにかけて、瑛子はその時も上気して、肌理《きめ》の濃やかさの一層匂うように美しい風で喋っていた。時々亢奮したように白足袋の爪先をせわしく小刻みに動かしたり、あなたのおっしゃることには絶対不賛成です、と云うような切り口上を挾んだりして。――
 そのころの宏子はもとより母と富岡とが或る時はひどく抽象的な云いまわしで、礼儀をみださず交わしてい
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