にみると、映画においてはその技術的前進に語られている人間の勝利と、その技術をもって語る作品内容の社会的相貌、人間性の勝敗の様との間に常に鋭い歴史性を反映するギャップがある。そのギャップを原則的にうずめ得る文化をもつ国は例外であって、映画の技術によって拡げられた国際性、短縮された時間の観念などにさえも、その根底的なギャップの本質が作用して、或る事情のもとでは人間の勝利である映画技術の縦横のリアリスティックな駆使をはじむるに至る。この環境的な映画の性格についても観るものの生活意慾は何を感じるであろうか。
 地方の目立たない小都市や村々の中へもちまわされる映画の性質とそれを観せられる人々の生活とのいきさつも複雑であると思う。東京では見かけないような特殊なものが地方まわりをしているらしい。啓蒙をめざされているとしても、感情や主題が非現実的で中央ではまさかこうは表現されないが、というようなものであれば、結局どういうことになるのだろう。
 今日の観衆は、又、大人の感情で子役をつかう所謂童心を描く映画に対して、もっと清潔であってもいいのだと思う。無制限に甘え合わないでいいと思う。文学の作品としてそういう境地に種々の問題があるように、映画にしても考え直さるべきところがある。
 文化映画の将来性、ニュース映画の豊富性、いずれも今日の文化の大きい内容を占めるものであるが、文化映画統制委員会というところは、文化映画の目安をどのようなところにおくのであろうか、これも映画を観るものにとって知りたいことである。映画製作が、種別に統制されるという企画は、日本が初めてではない。既に永年その方法でやられているところがある。やはり知りたいのは、その企画における文化としての質と量との比重であろう。
 あらゆる面からそのおもしろさを求める点においても、映画を見るものに益々人間らしい人生的な判断の必要が増して来ているにほかならないと思うのである。[#地付き]〔一九三九年二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「三田新聞」
   1939(昭和14)年2月25日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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