てペンにブレーキをかけます」この純真な若者は、次兄の出征の留守、トラックを運転しているのだ。思わず笑い、同時に胸がいっぱいになる。深く動かされた。
一月○日
今、夜の七時すぎ。絶え間なくギーとあいてバタンと閉る戸のあおり。盛に出している水の音。パタパタ忙しい草履の跫音。言葉はわからないが無遠慮な笑い声だけが廊下じゅうに高く反響して聞えている三四人の女たちの喋り声。例によって、九時ごろまでつづく騒々しいざわめきを聴きながら、どこやら落付かない心持でベッドの上に坐っている。いよいよ明日かえると思うと何だか落付かない。誰がうちに待っているというでもないのに。それでも落付かない心。そういう心。ベッドをおりて手紙をかく。
一月○日
午後二時頃、バラさんと寿江子の間に挾まれて、スーツ・ケイスなど足もとにつめこんで自動車で帰宅。茶の間の敷居に立って久しぶりの部屋を見まわす。真白な天井や壁ばかり見ていたので、障子のこまかい棧、長押、襖の枠、茶だんす、新しい畳のへりなど、茶色や黒い線が、かすかに西日を受ける部屋の中で物珍しく輻輳した感じでいちどきに目に映った。火鉢のわきにいつもの場処にさて、と坐る。どうもいろいろ御苦労さま。バラさん、寿江子にそう云うと、私はもう否応なく主《あるじ》で、病院にいた間とはすっかりちがい、ひとまかせにしていられない生活の顔がもう其処に在る。庭にあんまり霜柱が立って八つ手や青木がしもげているのにおどろいた。うちの水道はこの頃殆ど毎日凍っている由。
うちが急に寒い。「わが家だからスウィートなんだろうけれど、こう寒くちゃアイスクリームだね」と笑う。笑いながら、心はなかなか激しく求めるものがあった。
一月○日
毎日風がひどい、ちっとも雨が降らず。二階で臥たり、読んだり。栄さん結婚十五年というので、何婚式になるんだろうと当用日記のうしろを見たら、これまで生れ月の宝石だの結婚記念などのあった欄が、すっかり「ス・フの知識」に変っていた。
○ キュリー夫人伝の話が出る。確に近頃では興味深く且つ感動的な本であった。あの本やパストゥールの「科学者の道」の映画がああいう感動をもって一般に受けいれられるという事実は複雑な時代の感情をも語っていることだ。キュリー夫人が、夏どこかの田舎へ行っていたとき、素足で砂のところで休んでいると、そこを記者が見つけて、いろんなことを訊きはじめる。するとキュリー夫人が「科学は事に関しているのであって人に関していることでない」という意味の答をする。私にはあの一句がどうも忘られない。彼女のような廉直なひとに、彌次馬的なわいわい騒ぎや、女だということについての物見高さや、俄な尊敬、阿諛がうんざりであったこと、その気分からそういう形に要約された言葉の出たこともわかる。けれども、エーヴの筆がやはりその限界にとどまっていることはおしいと思う。もしほんとに科学は人間に関しないのであるならば、どうしてキュリー夫人は、ラジウムの権利を独占して儲けようとせず、ひろく全世界の人間の幸福のためにと開放したろう。そういう潔白な美しい行為は人間と科学との結ばれようの正しさを、おのずから示している。彼女を生んだポーランドの生活、彼女を活動させたフランスの社会の習俗、それらのことは彼女の卓抜な性格、資質と切るに切れない関係をもって、偉大な仕事を成就させている。彼女が女であって或る人類的な努力を貫徹したことは、今日の現実の中で何と云っても男が同じことを仕とげたとは違った具体的な努力の過程をもっている。科学は人間のことであるからこそ、女の生活というものがわかるからこそ、キュリー夫人伝が、人々の心に尊敬すべき生活の像として訴えて来るのだと思う。キュリー夫人が科学の客観的な真理との関係で、自分の箇人的な勉強などを伝説化すまいとした潔癖は気品ある態度であり、科学に献身した者らしい無私を語っている。けれども、人間の歴史の嶮しい波の中での女の生きる姿という広さにおいてみれば、彼女が少女時代から歩んだ道は、彼女自身によっても個人的閲歴の域を溢れた意義をもって見られても、本来の謙虚を傷つけることではなかったろう。キュリー夫人が独特の性格で、始終自身の生活をそういう自覚で見なかったのも、或る趣である。エーヴがあれだけリアルに描きつつ、そういうような点で母夫人の情熱の内奥に肉迫せず、あすこをどこやらシャ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ンヌの絵を思いおこさせるような色調の箴言的一情景として描くにとどまっているところ、様々の感想を誘われる。作家としてのエーヴが持っている微妙きわまる正負について。
○ 寿江子をおがみたおして、ハガキへ一枚門のところのスケッチをして貰う。風がひどくて寒いと中止。自分内心大悄気だが、おとなしく黙っていた。
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