ことを訊きはじめる。するとキュリー夫人が「科学は事に関しているのであって人に関していることでない」という意味の答をする。私にはあの一句がどうも忘られない。彼女のような廉直なひとに、彌次馬的なわいわい騒ぎや、女だということについての物見高さや、俄な尊敬、阿諛がうんざりであったこと、その気分からそういう形に要約された言葉の出たこともわかる。けれども、エーヴの筆がやはりその限界にとどまっていることはおしいと思う。もしほんとに科学は人間に関しないのであるならば、どうしてキュリー夫人は、ラジウムの権利を独占して儲けようとせず、ひろく全世界の人間の幸福のためにと開放したろう。そういう潔白な美しい行為は人間と科学との結ばれようの正しさを、おのずから示している。彼女を生んだポーランドの生活、彼女を活動させたフランスの社会の習俗、それらのことは彼女の卓抜な性格、資質と切るに切れない関係をもって、偉大な仕事を成就させている。彼女が女であって或る人類的な努力を貫徹したことは、今日の現実の中で何と云っても男が同じことを仕とげたとは違った具体的な努力の過程をもっている。科学は人間のことであるからこそ、女の生活というものがわかるからこそ、キュリー夫人伝が、人々の心に尊敬すべき生活の像として訴えて来るのだと思う。キュリー夫人が科学の客観的な真理との関係で、自分の箇人的な勉強などを伝説化すまいとした潔癖は気品ある態度であり、科学に献身した者らしい無私を語っている。けれども、人間の歴史の嶮しい波の中での女の生きる姿という広さにおいてみれば、彼女が少女時代から歩んだ道は、彼女自身によっても個人的閲歴の域を溢れた意義をもって見られても、本来の謙虚を傷つけることではなかったろう。キュリー夫人が独特の性格で、始終自身の生活をそういう自覚で見なかったのも、或る趣である。エーヴがあれだけリアルに描きつつ、そういうような点で母夫人の情熱の内奥に肉迫せず、あすこをどこやらシャ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ンヌの絵を思いおこさせるような色調の箴言的一情景として描くにとどまっているところ、様々の感想を誘われる。作家としてのエーヴが持っている微妙きわまる正負について。
○ 寿江子をおがみたおして、ハガキへ一枚門のところのスケッチをして貰う。風がひどくて寒いと中止。自分内心大悄気だが、おとなしく黙っていた。
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