、
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「人の足元を見ないでいい商売は出来ませんやね。
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と云った。そしてとうとう桐は五十円で落されてしまった。
紫の雲の様に咲く花ももう見られないと達は、その木の下で、姉と飯事をした幼い思い出にひたって居た。
政が帰ってからも栄蔵は非常に興奮して耳元で鼓動がするのを感じて居た。
お節を前に置いて栄蔵は、政を罵って居るうちにフトお節の懐に何か手紙の入って居るのを見つけた。
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「何んやお前の懐に入っとる手紙は、
早うお見せ。
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お節は、ハッとして懐を両手でしっかり押えた。
そして震える声で、
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「貴方お見なはらずといい手紙なんやからな、
達によませて事柄だけきかせまっさかい。
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と云ったけれ共、栄蔵はきかなかった。
どうしても見せろと云ってきかないのでお節は仕様事なしに封を切って、始めから、栄蔵の方へ向けて繰りひろげて行った。
お金のところから来た手紙はこれまで一つもあまさず皆、針箱の引出しの中に入れて見せなかったのにこればかりは、政が来て居たのにまぎれて懐になど入れて置いて……
取りかえしのつかない事をして仕舞った。
お節は、半切れの紙に、色の変って行く栄蔵の顔を見て目をあいて居られなかった。
しまいまで読み終るといきなり破れる様な声で、
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馬鹿!
馬鹿野郎、
人が病気で居ればいい玩具や思うて勝手な事云うてさいなみ居る。
出したけりゃ早う、夫婦共に出すがええ、
人でなし。
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と云った。
お節は涙をボロボロこぼしながら、
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マアマアそう云わんで。
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と云ったけれ共、そんな事は何にもならず、息を弾ませて、ハアハア云いながら、床の上にバターン、バターンと手や足を投げつけては、大声で早口に、ふだんの栄蔵にはさかさになっても出来そうにない悪口を突いた。手を押えてしずまらせ様とした達は、拳で顎をぶたれて痛さに涙を一杯ためながら、あばれるにつれて身をかわしながら手を押えて居た。
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ウウウウ
ハアハア
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胸はひどく波打って居た。
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覚えとれ、鬼め。
ほんにほんに憎い女子《おなご》やどうぞしてくれる、わしは子供の時からお主にひどい目に会わされてる。
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断片的に、上ずった声で叫んだ。
その恐しい様子に手の出し様のないお節は顔をそむけて自分の不注意から出来たこの事を悔む涙にむせんで居た。
長《なが》い間、あばれた栄蔵は疲れた様に次第にしずまった。
少しの砂糖水をのんだ後は、近頃に珍らしい大きないびきをかいて眠りに入った。
お節は涙の中にそのいびきをきいてかすかな微笑をもらした。
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あばれた御かげで疲れやしたんやろ、
明日はけっとようなりやすやろなあ。
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お節は涙を拭いて音をたてずにあちこちと物を片づけ土鍋に米をしかけてゆるりと足をのばした。
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「ほんにまあ、珍らしい事やなあ。
今日が楽しみや。
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達も、顎の痛さを忘れるほど軽い気持になった。
自分は次の間に、お節は父親のそばに分れて部屋を暗くすると二人ともが安心と疲れが一時に出て五分とたたない中に快さそうな寝息をたてて居た。
翌朝いつまでも栄蔵は起きなかった。お節があやしんで体にさわった時には氷より冷たく強《こわば》ってしまって黒い眼鏡の下には大きな目が太陽を真正面に見て居た。
底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
1981(昭和56)年12月25日初版
1986(昭和61)年3月20日第5刷
初出:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
1981(昭和56)年12月25日初版
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年9月25日作成
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