になって、病気について、何の智識もないお君は、非常に恐れて、熱はぐんぐん昇って行きながら、頭は妙にはっきりして、今までぼんやりして居た四辺の様子や何かが、はっきりと眼にうつった。
胸元から大きな丸いものがこみ上げて来る様な臭いの眠り薬、恐しげに光る沢山の刃物、手術のすみきらない内に、自然と眠りが覚《さ》めかかってうめいた太い男の声、それから又あの手を真赤にして玩具をいじる様に、人間の内実《なかみ》をいじって居た髭むじゃな医者の顔、あれこれと、自分が無我夢中になる前五六分の間に見た事聞いた事が、それより前にあった百の事、千の事よりもはっきりと頭に残って、夜中だの、熱のある時は、よく、此の恐ろしい様子にうなされて居た。半月ほど、病院のどっちを向いても灰色の淋しい中に暮して、漸々、畳の上に寝る様になってからまだ幾日も立っては居なかった。けれ共、絶えずせせこましい気持になって居るお君には、一日の時間も、非常に長い、非常に不安心なものであった。
お君は、思い出に一杯になった体を、溜息と一緒に寝返りを打たして、今までとは反対の壁側に顔を向けた。
[#ここから1字下げ]
「母はんは、苦労ばかりお仕やはっても、いい智恵の浮ばんお人やし、達《たつ》やかて、まだ年若やさかい、何の頼りにもならん。
[#ここで字下げ終わり]
たよりにならない、母親や弟の事を思って、お君はうんざりした様な顔をした。
誰か一人、しっかりとっ附《つ》いて居て安心な人を望む心が、お君の胸に湧き上って、目の前には、父親だの母、弟又は、家に居た時分仕事を一緒にならって居た友達の誰れ彼れの顔や、話し振りがズラッとならんだ。友達共は、皆相当に、幸福に暮して居るのに、自分は今どうして居るのだろうと思うと、薄い眉根にくしゃくしゃな「しわ」を寄せて、臭い様な顔付をした。
そして、さのみ気が乗ったでもない様にして、枕元の小盆《こぼん》の傍に小寒く伏せてあった雑誌を取りあげた。お金が小やかましいので、日用品以外の物と云ったら、自分の銭で買う身のまわりの物まで遠慮しなければならない中を、恭二がお君のために買って来てくれたたった一冊《いっさつ》の雑誌である。
幾度も幾度も繰り返して、まるで、饑えた犬が、牛の骨をもらいでもした様にして見るので、銀地へ胡粉で小綺麗な兎を描き、昔の絵にある様な、樹だの鳥だのをあしらった表紙も、もう一体に薄墨をはいた様になってしまって居る。
そのぼやけた表紙から、はじけた綴目から、裏まで細々と見てから、中についた幾枚もの写真を、はたで見るものがあったら仰天する位の丁寧さでしらべて行った。
何々の宮殿下、何々侯爵、何子爵、何……夫人、と目にうつる写真の婦人のどれもどれもが、皆目のさめる様な着物を着て、曲らない様な帯を〆、それをとめている帯留には、お君の家中の財産を投げ出しても求め得られない様な宝石が、惜し気もなくつけられて居る。
どの顔にも、――それは年取ったと若いとの差は有っても――満足して嬉しがって居るらしい、又金持らしい相があると、お君は思った。
これにくらべて見ると、いつだったか、夜一寸出た時に、おじいさんの卜者に見てもらった時に、
[#ここから1字下げ]
貴方は、苦労する相ですぞ。
気をつけんきゃあならん、なあ、
金と子の縁にうすいと出て居る。
[#ここで字下げ終わり]
と云われたのが事実らしく思われて、暗い気持になった。
帯の結び様でも、指環の形でも、いつの間にか、見も知らなかった様なのが出て居た。お君は、一つ一つの写真について頭から爪先《つまさき》まで身のまわりの物の値踏をしはじめた。
この着物も、本場なら六十円を下らないが、一寸でも臭さければ、私にだって着られる。
この指環だって、ここに一つ新ダイヤが入って居ようものなら、八百円のものは、せいぜい六七十円がものだ。
写真で、真《ほん》ものと、「まがい」の区別はつかないから都合がなるほどいいものだ。
着物だの飾り物に、ひどい愛着を持って居るお君は、見も知らない人々が、隅から隅まで隆とした装で居るのを見るとたまらなくうらやましくなって、例えそれが、正銘《しょうめい》まがい無しの物でも、自分の手の届くところまで、引き下げたものにして考えて居なければ気がすまなかった。
少しは読み書きも明るいけれ共、根《こん》のないお君は、ズーッと写真だけ見てしまうと、邪険に、雑誌を畳に放り出して、胸の上に手をあげて、そそくれ立った指先を見て居た。
[#ここから1字下げ]
こんなみじめな指《ゆび》をして居ては、若し、さっき彼の人のはめて居た様に、いい指環があったにしろ、気恥かしくて、はめられもしない事だろう。
ああ云う着物が山ほど有っても、寝て居るんじゃあ、お話にもならない。
[#ここで字下
前へ
次へ
全22ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング