ていた時分には、よく夜ひとりで近所の映画を観た。部屋に友達を一人でおいてやるためには外へ出なければならなかった。あっちは一時間半ぐらいで循環する。私のよく行ったところは小さい映画館だもので、下の食糧品店は夜になるとすっかり暗く閉っている。わきの方にチラチラとイルミネーションのついた看板が淋しく一二枚出ている狭い入口があって、そこから階段をあがって行くと、二階が映画館になっているのであった。
冬だと、誰でも靴の上にもう一つ重ねてフェルトの厚ぼったい防寒靴をはいて外を歩くのだが、ところによると映画館でもそれを脱がなければならないところがある。そして、下足に預ける。皆がそれをやるからひどい混雑でいやな思いもする。近所のその映画館は小さくて、きたないかわり、防寒靴をはいたままでよかった。それがたいへんに気易い。切符を買って、入るとそこが広間の待合室で、真中に緑色の縮緬紙の大きな蝶結びをつけた埃っぽい棕梠の鉢植が一つ飾ってあって、壁に沿って椅子が並べてある。
どんなすいた晩でも、そこでは七八人の楽師が待っている人のために音楽を奏していた。或る晩、それらの楽師たちが第九シムフォニーをやっていた。全く意気込んで、そこにきいている人たちの理解にかかわらず、今晩はこれをやるんだという意気込みかたでやっている。私は仔熊のような防寒靴をはいたまま、外套も着たまま腰かけてそれを聴いていて、好意を感じた。鼠色のフランネルの襯衣《シャツ》を着たりして、手の赤い楽師たちのその熱心さのなかには、人類の芸術の宝をもう一度本当に自分たちのものとして持ち直そうとしている、その土地全体の気風の若々しさが映って感じられたのであった。
外国のひとたちは旅行して汽車にのっても、停車場へ止ったときは降りて、プラットフォームを散歩する。そういう活動的な習慣はこのごろ若い人々の間に移って来て、旅の楽しさ、旅の間に動いている人間らしい目付の溌剌とした輝きが快く目にとまるようになった。そんな、けちな街の映画館でさえ、人々が少し溜ると、誰からとなく広間の中に列をつくってぐるりと歩きはじめるのがしきたりであった。連れのあるひとは連れと並んで、若い男は女のひとの腕などをとって、何か自分たちの間で喋りながら、ゆっくりした足どりでぐるぐる広間の中をまわって歩く。つれがなくて一人でいても、それを眺めるか、さもなければいつしか自
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