のを活かすか、活かせないかという点でのあたま[#「あたま」に傍点]のよさ、わるさはいわれるけれども。
 ベッティ・デヴィスの「黒蘭の女」というのはどんなものだろう。ポーラ・ネグリという女優のあたまのよさは生活力でねりあげ鍛えられていて、つよい印象である。このごろ初恋につれて新しい興味をもたれているデイアナ・ダーヴィン、この女優はその歌にほんとうの濃やかな味わいがないとおりに、修業や世俗の悧巧さでおおいきれない素質としての平凡さ、詰らなさがあるように感じられる。
 日本の映画女優で、頭のいい人といえば飯田蝶子の名を誰しも思い出すようだが、森律子と似ていて、そのかしこさがやや日常性により多く立っているように考えられる。山田五十鈴、入江たか子、それぞれ自分の容姿をある持ち味で活かす頭はもっているといえようが、日本の映画は歴史が若くて映画としての世界が狭かったためか、女優のあたまにしろ感情にしろ、まだ奥が浅いと思う。このことには、日本の女の生活全体の歴史も反映しているのであるから。いかにもくっきりと、よかれあしかれ特徴を押し出して銀幕の上に自身を活かし切るようなひとは、これからにその出現を期待
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