な変化が生じるかということについては社会的な原因が綿々と過去につらなっている。女の生活の現実を考えて見れば、女優が本当に自分の顔をもつまでには、なかなかのことであると思われる。日本の表情の一つとして世界に不評判なあいまいな笑いの習慣も、映画の上では特に注意される問題であると思う。
「裸の町」は、私たち素人の目では、前半、後半とテーマがわかれていた感じである。文芸映画としてのよりどころは、後半にあったと思うが、後半での妻の演技的迫力がもう一つ足りなかったので、誠意はあるにかかわらず心理的な動きのボリュームが減った。
この頃は不自由でソヴェトの映画をなかなか見ることができなくなった。現代、あっちの映画はどんなふうに行っているか実に好奇心を動かされる。アメリカその他の映画が、たとえば恋愛を扱うにしろ、社会の非合理から生じた悲劇を悲劇のまま描いたものか、さもなければナンセンス、ユーモアに韜晦《とうかい》しているもの足りなさを、今日のソヴェト映画は、どのような内容と技術の新生面を開いているだろうか。小説が通俗化せば化すほど、筋は恋愛に集注して来る。その面からだけ現実を勝手にきって行く。映画でも
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