際になると、顔は非常に消極的な役割しか演じなくなる。「裸の町」についていえば夫の留守債鬼に囲まれながら孤城のような店に立てこもっている妻の顔つきは全く内部の感情と結びついたものであって、観る者を納得させた。けれども猫を捨てる海岸の場面、駅前の小料理屋の場面などで、妻の顔は言葉を失ってどちらかというとただの女の顔になってしまっている。そしてこの場面こそ心理的には全篇の中の一番緊張した部分であった。
 ある外国人が書いているものの中で日本の民衆の顔の特徴の一つとして深刻な観察を語ったのを読んだ覚えがある。その人はいっていた。ヨーロッパの民衆は平常の表情はだらしないゆるんだ様子をしている者でも、何かまじめに考えたり、行動したりしようという瞬間には、その容貌が一変したようになって普通と違う緊張やある活気機敏さを示す。精神活動の目醒めがすぐそのものとして顔に出て来る。ところが日本の民衆の顔は全く特別な性質を持っていて、平常は敏活ささえ見えている顔が非常にまじめに緊張すると、かえって一種漠然としたような、遠のいたような、一見遅鈍のような表情に変る。これは驚くべきことであるといっている。なぜそのような変化が生じるかということについては社会的な原因が綿々と過去につらなっている。女の生活の現実を考えて見れば、女優が本当に自分の顔をもつまでには、なかなかのことであると思われる。日本の表情の一つとして世界に不評判なあいまいな笑いの習慣も、映画の上では特に注意される問題であると思う。
「裸の町」は、私たち素人の目では、前半、後半とテーマがわかれていた感じである。文芸映画としてのよりどころは、後半にあったと思うが、後半での妻の演技的迫力がもう一つ足りなかったので、誠意はあるにかかわらず心理的な動きのボリュームが減った。
 この頃は不自由でソヴェトの映画をなかなか見ることができなくなった。現代、あっちの映画はどんなふうに行っているか実に好奇心を動かされる。アメリカその他の映画が、たとえば恋愛を扱うにしろ、社会の非合理から生じた悲劇を悲劇のまま描いたものか、さもなければナンセンス、ユーモアに韜晦《とうかい》しているもの足りなさを、今日のソヴェト映画は、どのような内容と技術の新生面を開いているだろうか。小説が通俗化せば化すほど、筋は恋愛に集注して来る。その面からだけ現実を勝手にきって行く。映画でも駄作ほど恋愛一点張りになるのであるが、このことも、映画が今日の文化の中でもっている社会性を反映しているといえると思う。[#地付き]〔一九三七年八月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「日本映画」
   1937(昭和12)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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