雨滴
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)入用《い》ろう
−−
此頃、自然美の讚美され出して来た事は、自然美崇拝の私にとってまことに嬉しく感じる事である。
どうして今まで、ああして、そうもかまわれずに片隅になげた様にされて居たものかしらんと思う。
静かに太陽の健な呼吸を聞き、月の深遠な光明に身をひたして居ると口にまでつくせぬ、複雑な美に打たれるのである。
日々を、心ならずもいやな事、心を悩ます事の多い中で暮して居るのであるから、どこの廃市にも、満ち満ちて居る自然美になつかしむ心さえあれば、何もことさらの金と時間を費さずとも、霊の洗われ、清められる慰めを得るのであるのに……。
私は殊に、芸術家の如何なる階層の人もこの自然美の観賞と云う事に敏い眼を持って居て欲しいと思う。
私共がすでに自然の産物である以上、その親をしたうに何の批評が入用《い》ろう、
何の思考が入ろう。
或人は室中に何も置かない方がまとまると云う、
又、私の様に、何かしら、心をこめて集めたものとか美くしいものがなければ、その部屋には居られないと云う者もある。
どちらが好いか悪いかと云う事は別として、どうしてそう云う気分になって来るかと云うと、前者は、美に対する執着なり要求が少ないので、後者になると、絶えず美に対する渇仰が心に湧いて居るのである。
美を要求すると云う事は、人性の自然だなどと云う学者めいた事をぬきにしても日常生活に必要なものであると思う。
美を少しも愛さぬと同時に、それについて何の意見も持たない人は、世の中の非常に高尚な一面を、一生見ずに過す事になる。
私の意見では、自分の部屋はあくまで自分の箇性の表われた美くしさで充分飾られて居なければならない。
其故に私は、玩具を好み、すこやかな泥人形などに思をよせて居る。
まるで、異った事の様であるが、人をいましめる時に叱るのと、恥かしめるとの差を明かに得《え》とくして居る人が少ないのに驚いた。
まして、女に……。
――○――
青年期に達する時に男でも女でも非常に頭がデリケートに芸術的になるものである。
天才と呼ばれる様な人は、その時の美くしい発露を永遠につづけ得るのである。
即ち、その時の若さが不朽なのである。
――○――
小剣氏の
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング