出した。
 自分達のして居る事の不平やら不安やらが頭の中におしよせて来た。眉をピリピリッとさせてうなる様に、
「どうせ……どうせ」
ときれぎれに云って立ちどまって深い息を吐いた。
「パンをかじりながらキッスをしなくっちゃあならない世の中なんさ」
 女は暗の中にうごめいて居る見えない不安や不平にこう云いやって、手をおよぐ様にふっていきなりかけ出した。走りながら「どうせ……どうせ……」と女は思ってパッと見ひらいた目からとめどない涙をこぼした。

     二階に居る時

 ヘリのないぞんざいな畳には、首人形がいっぱいささって夢□[#「□」に「(一字不明)」の注記]の紙治、切られ与三、弁天小僧のあの細い線の中にふるいつきたい様ななつかしい気分をもって居る絵葉書は大切そうに並んで居る。京の舞子の紅の振、玉虫色の紅の思われる写真は白粉の香のただよいそうに一っぱいちらばって壁に豊まろの女、豊国の女房はそのなめらかな線を思いきりあらわしていっぱいはってある。すすけた天井からは、浅草提灯が二つ、新橋何とかとそめぬいた水色の手拭までさげてぶらさがって二つある。柱には紙で作ったひなが二つ、昔話しを思い出させる様に、はすっかいにとめてある。唐紙、カンバス、絵の具、なつかしい切り抜きの絵、文芸雑誌――そんなものがいっぱい散らかって漸く私達の座る事の出来る所だけすきのある様なせまい二階に二人は熱にうかされた様に話し合って居る。だらしないとりとめのないような部屋の中にもどことなしに私の心にピッタリとあう、なつかしさとにおいがただよって居る、髪を一寸ながくして内気なかおにかるい笑と力づよさをうかべて一生懸命に話す若い絵書きの前に、私は髪を一束につかねて、じみな色のネルを着てその人の絵絹の上に細筆を走らせる時の様に、かすかに動いて居る様な手を見ながらその話にききほれて居る。
「話し相手がないもんですからネ」こんな事を云ってその人は思ってる事――今まで話す人がなくってためて置いた事をあらいざらい云ってしまわなくっちゃあならない様に話して居る。
「いやんなっちまうんです、ほんとうに、老[#「老」に「(ママ)」の注記]よりばっかりですもん、どうでも私の思ってる事なんか分るもんですか。それで居て勝手な事ばかり云って居るんだもの……私達が又今の親達位の年頃になれば子供にこんな事云われる様になるんだろうけれ共――」
「誰だってそんな事思うでしょう……我ままじゃなくしたってそうにきまってるんですもの……そいで又、親なんかになるとまるで自分の若い時は人間じゃなかった様に若々しかった気持、たえず震えて居た心なんかって事はまるで思いきったほど忘れてるんだから……」
「そうですよ、ほんとうに、エエほんとうにそうなんです。忘れるも忘れるもいじの悪いほどきれいに忘れて生れ落ちるとすぐっから世間を知って居た見たいにサ、私達にはしゃべってるんだから妙なもんですよ、頭なんて云うものは」
「まるで忘れてるって云うんでなくったって、新らしいゴムマアリの様に力強い若々しい嬉しい事、悲しい事のしみじみと思われた時代を気のぬけた風せんの様にクチャクチャになってしまった今日思い出すのはキット辛い事でしょう。だからわざと思い出すまい思い出すまいとしてるんでしょう。私はそんな風に思われます……それがあたってましょうキット……」
「私達みたいに若いもんでさえ、落椿を糸で通してよろこんで居た事を思い出すと寒い様な気んなりますもんねエ」
「……」私はフットさしてある首人形を見てお妙ちゃんを思い出してしまった。うつむいてかるく目をつぶって「忘れたい」と思ってた。あの時着て居た着物――あの時さして居たカンザシ――帯、はこせこ、こんな事がズラリと頭の中にならんでしまった。
「どうしたんです?」その人は私が急にだまりこんで考えてるんでビックリした様なつつぬけの声を出した。「何でもないんです。一寸首人形を見たら思い出した事があったんで……」こんな事を云って私はつくり笑をした。
「どんな事? 首人形を見て思い出すなんかって……いかにもやさしそうな事ですネ、話しませんか?」
「エエ、そりゃあやさしい事《こ》ってすけど……こんなとこでポイポイ云っちまうにはおしい話だから私がお話ししたくなった日に云いましょう」
「大抵は想像してるけど……京の舞子かなんかの話しでしょう、そいでなくってもキット京都にかかりあいがあるに違いないネ? そうでしょう?」
「それだけ分ったらもうだまってらっしゃい、それより余計な事をおっしゃるとキット私のいやな事になるから……」
「何だかおどす様な事云うんですネエ」その人は私のかおを見ながら、こんな事を云った。私は首人形を見つめながらだまって笑って居る。
「あの私がよく行く京橋の家に三階から『テッテケテ』な
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