ら」
 熱いものを飲まなければいけないとか何とか一頻りごたごたして、彼等が×町を出たのは、もうかれこれ十二時過ていた。電車も止った深夜の大通りを、さっさと早足で歩きながら、ゆき子は、新たな驚を自分の心に感じた。
「部屋にはあれだけ人がいたのに、先ず真先に、真木に何か異ったことのあるのに気付いたのは、この自分であった」――そこには無限の意味がある。彼女は、あれほど不愉快な思をし、あれほどはっきり「構やしない」と思っておりながらも、いざという時には真先に注意が及ぼすほど、内心に深く広く行き亙った自分の愛に、感激したのであった。――
 ゆき子の狭めた眼の前には、ありありと、紺色のコートに纏り、真木と歩調を合わせて歩いて来る自分の姿が見えた。遠くまで真直、なだらかな蒲鉾なりに延びた深夜の大通り。青や赤や黄色にキラキラキラキラ瞬いている色々な街の燈火が、柔らかく黒い夜の幕に、まるで彩った大きい頸飾のように連なって見えた様子。彼女は、亢奮して見上げた空に深々と星が輝いていたことから、白い雲が一ながれ、西風に吹かれていたのまで思い起した。
 周囲の情景は、如何にも印象深く甦って来る。――けれども、ゆき子は、思い起すと腑に落ちない気分がして来た。
「真木が間違っていると信じ、それを明にしようとして争った自分が、自分の愛の深さを知ったからといって……」
 何だか、彼の誤解なら誤解をその感激で許したというのではなく、一時の気分で紛れ忘れて、また、一切かまわず絡み付いて行ったような心持がした。
「それ故何かの機勢でまた不意とそれに気が付くと、同じ瞬間的な紛れ易い執念さで跳びかかって行くのではないだろうか?」
 亢奮の後には珍らしいことであった。ゆき子の心には、繰返し繰り返し感激したり怒ったりしている定見のない自分の愚かしさが、ぼんやりながら反省にのぼって来たのである。
 軽い夕食を取ると、真木は、
「少し歩いて来よう、寝られないといけないから」
とゆき子を誘った。
 彼等は家を出、賑やかな町並とは反対に、小石川台の奥へ入って行った。
 勿論、家つづきであった。けれども、人通りがなく、ほんのりと暗い土の路と空との間に、芽ぐむ樹々の芳ばしいしとやかな香を漂わせた小路の散策は、心を和らげた。
 ゆき子は、ほんとに心持がよかった。こうして良人に親切にされ、心遣われながら共に在ることは、殆ど官能的に、理窟ない満足で心を浸す。――
 歩きながら、先刻の自分の凄じさを思い起すと、彼女は恥た、苦々しい気分にならずにはいられなかった。母などに対して、ゆき子は決してあんな滅茶にはならなかった。云うべきことは云うべきこととして、ちゃんと区画がついている。
「それだのに、真木に対すと、何もかも、可愛さも、悲しさも、一緒くたになって結局埒もないことになってしまうのはどうしたということだろう」
 彼女は、そこに恐るべき心的のだらしなさを認めずにはいられなかった。
「それだから、仕事も出来ないのではないか?」ゆき子は闇を貫くように、或る考えに打たれた。
「自分が若し、真木を一番愛しているということで、彼を最もよく知っていることを主張するなら、同じ強硬さで、自分に対して、同様のことを主張し得る筈ではないか? また、彼女はああやって先達のように、激しい熱情でそれを示す。けれども、自分はその全部を正鵠を得た直覚または観察として、受けられただろうか?」
 ゆき子は、正直に「否」と云わずにはいられなかった。世の中に母の愛ほど、その母の中でも自分の愛ほど深大な且つ純粋なものはないという位の強い信念の下に立った寿賀子の或る場合は、却って激情そのものの息苦しさほか感じさせない。――「それがどうして、自分の感情にも起らないことだといえるだろう!」結婚後、俄に自分のうちに育ち始めた所謂「女らしさ」可愛いとか、優しいとか、または上品だとか、種々な形と言葉とで現わされる、手応えのない妙に焦点を外に結ぶ女性の肉感性。それ等に彼女は疑い深い眼を向けずにはいられなくなった。

 寝床に入ると、真木は優しく、
「気分はいいかね」
と傍のゆき子に声をかけた。
「え、有難う、大丈夫よ」
「――よくおやすみ」
 真木は自分の場所から手を延して、静にゆき子の頭をたたいた。けれども、彼女は、いつものように、それを倍にして戻す気分にはなれなかった。
「――おやすみ遊ばせ」
 ゆき子は、何か、心の中に、今日一日で嘗てない新しい一つの道がついたような心確かさで、良人の静かな輪郭《プロフィル》を眺めた。



底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
   1953(昭和28)年
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