に、理窟ない満足で心を浸す。――
 歩きながら、先刻の自分の凄じさを思い起すと、彼女は恥た、苦々しい気分にならずにはいられなかった。母などに対して、ゆき子は決してあんな滅茶にはならなかった。云うべきことは云うべきこととして、ちゃんと区画がついている。
「それだのに、真木に対すと、何もかも、可愛さも、悲しさも、一緒くたになって結局埒もないことになってしまうのはどうしたということだろう」
 彼女は、そこに恐るべき心的のだらしなさを認めずにはいられなかった。
「それだから、仕事も出来ないのではないか?」ゆき子は闇を貫くように、或る考えに打たれた。
「自分が若し、真木を一番愛しているということで、彼を最もよく知っていることを主張するなら、同じ強硬さで、自分に対して、同様のことを主張し得る筈ではないか? また、彼女はああやって先達のように、激しい熱情でそれを示す。けれども、自分はその全部を正鵠を得た直覚または観察として、受けられただろうか?」
 ゆき子は、正直に「否」と云わずにはいられなかった。世の中に母の愛ほど、その母の中でも自分の愛ほど深大な且つ純粋なものはないという位の強い信念の下に立った寿賀子の或る場合は、却って激情そのものの息苦しさほか感じさせない。――「それがどうして、自分の感情にも起らないことだといえるだろう!」結婚後、俄に自分のうちに育ち始めた所謂「女らしさ」可愛いとか、優しいとか、または上品だとか、種々な形と言葉とで現わされる、手応えのない妙に焦点を外に結ぶ女性の肉感性。それ等に彼女は疑い深い眼を向けずにはいられなくなった。

 寝床に入ると、真木は優しく、
「気分はいいかね」
と傍のゆき子に声をかけた。
「え、有難う、大丈夫よ」
「――よくおやすみ」
 真木は自分の場所から手を延して、静にゆき子の頭をたたいた。けれども、彼女は、いつものように、それを倍にして戻す気分にはなれなかった。
「――おやすみ遊ばせ」
 ゆき子は、何か、心の中に、今日一日で嘗てない新しい一つの道がついたような心確かさで、良人の静かな輪郭《プロフィル》を眺めた。



底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
   1953(昭和28)年
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