されると同時に、自身も所謂矩を越え得ず、経済機構の逼迫につれ反動的な力が増すにつれ、いつしかそのために利用される存在とならざるを得なかった。
 お祖父様がお祖父様だから、というところから強制され、生じる無理は、家庭を支配する空気の中に二六時中何か否定的方面の作用を営んでいることは、誰にも推察される。良子嬢は、その総体の生活気分をひっくるめて「面白くない」という表現を与えている。
 うちがそういう事情で面白くない。面白そうなところと目されたのがカフェーであった。小市民階級の娘たちが、うちが面白くないので、飛び出して、例えば映画女優になりたいとか、ダンサーを志すとか、いうことは屡々《しばしば》あり、そこには客観的に見た当否は別とし、自身の才能についてのぼんやりした選択が認められる場合が多い。よほど質の低い、地方からポット出の十八九の娘ぐらいが、カフェー女給は面白いと単純に考える可能性をもっている。いくら職業をさがしてもないから、到頭食うために女給になったという若い女は数多く、それは現在の経済危機の増大につれ増加して来ている、別箇の問題であると思う。
 良子嬢が東郷元帥の孫としてのつまらない生活の反対物をカフェーに見出したところに、子供のうちから消費生活にだけ馴らされた娘の気分と、今日の貴族階級が生活感情の実質においては、赤化子弟に対する宗秩寮の硬化的態度に逆比例するデカダンスや低俗なエロティシズムに浸透されていることが分る。
 良子嬢によって実行された十七日女給の試みが、最も無邪気な貴族令嬢の映画好みのアバンチュールまたは、ナンセンスな茶目ぶりと解釈されるにしても、やはりそこには、良子嬢がああいう階級の一部の若い連中のひそかな興味の代弁人であったことだけは顕著なのである。
 日露戦争から今日まで僅か三十年経ったばかりである。その祝祭は、様々の戦勝追憶談として華々しく新聞雑誌に連載されている。けれども、この三十年間に、われわれの住んでいる階級、社会はどのように推移して来たことであろう! ごく小さい形をとってあらわれた例をとって見ても、一方に東郷良子の女給ぐらしがあり、他方に転向させられて自殺した岩倉の娘の人の胸を打った進歩への献身の実例がある。後の方の例を滅薙せんとする法規を改正し得ても、前者のような芽生の優生学上から見てのくされを如何ともなし難いところに、戦勝談からはも
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