)ね、貴方、これからこうしようじゃないの? 貴方が来て貰っては困るとお思いになったら、はっきりそう云って頂くの。そして、私、断ってしまうわ。その方が……どんなに心持が好いか判らない……
振一郎 何もあなたの処へ来ようという人を、僕が厭だって断る訳はないじゃあないか、そんなエゴイストじゃあない。
みさ子 それが間違いだとはお思いにならない? 来る人は、私共二人[#「私共二人」に傍点]の処へ来るのよ。それだのに(涙が危くこぼれそうになる)いつも、私一人ぼっちでお相手をして、奥平さんはどうなさいましたって訊かれるの……おまけに貴方はちっとも楽しそうではないんですもの――私、どうしていいか判らなくなってしまうわ。
振一郎 判らないことはない。あなたは僕のことなんか忘れて、愉快にすればいいんだ。その方が、僕にとったって、どの位|呑気《のんき》だか判らない。
みさ子 (疑わしそうに、良人を見)そう? ほんとに?
振一郎 (力を入れ)ほんとにそうだとも! 若し僕が暇で気が向いたら、いつでも出て来て仲間に入ればいいでしょう?
みさ子 そうならほんとにいいわ。(嬉しそうに)じゃあ、後で出て下さること?
振一郎 いつ? 今日?
みさ子 (勿論と云うように)そうだわ。
振一郎 判らない。まああなただけで接待していてくれ。
みさ子 ――それじゃあ同じだわ……ああほんとに(椅子を立ち、歩き出しながら嘆息する)
振一郎 (気にし)どうしたの?
みさ子 (凝《じ》っと、憂わしげに良人を見る)私共の処でさえこうなんだから、よその奥さんが、自分のお友達さえ呼ばなくなるのは無理もないと思ったの。
振一郎 物事を、何でもそう悪意にとるものじゃあない。僕の云う真意を諒解しなければ、いつでも、詰らない衝突を起すばかりじゃあないか。
みさ子 (熱心に)ほんとに、私も私の心の奥の奥が判って頂きたいわ。理屈じゃあなく、私の感じることを、貴方の胸で感じて頂きたいわ。
振一郎 ――お互のことだ。……要求は限りないものだからね。人間は、五のものを与えられると、必ず七のものまで得ようとする。――
みさ子 ――
振一郎 とにかく、僕は失礼させて貰うから、皆さんによろしく。――勿論用があったら、いつでも来ていいんだからね。
[#ここから4字下げ]
来た垂帳の方から去ろうとする。みさ子、思わず後を追い、何か云おうとする。が、やめ、元気を失い、詰らなそうに、ぐったりと傍の長椅子にかける。
[#ここで字下げ終わり]
みさ子 (ひそやかに、独白)ああ、どうして、ああなんだろう……?
[#ここから4字下げ]
長椅子の端に肱をつき、凝っと前を見つめ考えに耽る。やがて、寂しさに堪えられないらしく、急に立上り、書棚の傍のベルを押す。きよ登場。
[#ここで字下げ終わり]
きよ お呼びでございますか?
みさ子 ああ、あのね、私の部屋へ行って、やりかけのスティッチを持って来て頂戴な。
きよ はい。(去る)
[#ここから4字下げ]
みさ子所在なさそうにヌックの方に行き、腰を下して、花壺の花をいじる。寧ろ、心は内へ内へと沈み、指先だけが無意識に微かな運動をするという風。
きよ、愛らしい紅色の繻子張小籠を持って来る。
[#ここで字下げ終わり]
きよ これでよろしゅうございますか?
みさ子 有難う――鋏があったかしら(籠の中を一寸検べる)ああ、これでいいわ。それからね、お客様がいらしったら、直ぐこちらへお通しして頂戴。私ここにいるから――
きよ はい――。先ほどのお菓子は、いつものお皿でよろしゅうございますか?
みさ子 ああいいわ、あの花のついた方ね。
[#ここから4字下げ]
きよ、軽く会釈して行きかける。
[#ここで字下げ終わり]
みさ子 あ、きよや、旦那様は何をしていらっしゃるの?
きよ (立止り)さあ……先ほど、御書斎の方においで遊しましたが……
みさ子 それならいいのよ。有難う。
[#ここから4字下げ]
きよ、去る。
みさ子、卓子の上の小籠から、白い、センター・ピースを出し、ぽつぽつ縫取を始める。けれども、心は落付かず、折々凝っと、細い指に嵌《はま》った結婚指環を眺めたり、我と我心をなだめるように、髪を撫であげたりする。感じは内に満ち、満ち、而も、表すに途のない素振り。ほどなく、垂帳の裏から、
[#ここで字下げ終わり]
きよの声 奥様?
みさ子 (頭を押えていた手を落し)なに?
きよ (部屋に姿を現し)橋詰様がいらっしゃいました。
みさ子 おひとり?
きよ いいえ、あの……
[#ここから4字下げ]
云い切らないうちに、足音。若い男の声。
[#ここで字下げ終わり]
谷 僕も一緒ですよ。
[#ここから4字下げ]
谷三郎、橋詰英一、連立って快活に現れる。
[#ここで字下げ終わり]
谷 やあ! 今日は。
みさ子
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング