「てお遣りなさい。あの男は、あなたのことといえば、真剣なんだから。
みさ子 ――(意味を解しかねて谷の顔を見る)
谷  僕が、あなたに勝手な熱を吹くと思って、お冠を曲げたのですよ。然し……あの男の思うほど、僕は「不良」じゃあありませんよ。これでも――(調子を変え)実際、今日のような話が、あなたと出来るとは思いませんでしたね。
みさ子 (谷の心持が解らず)どうして?――別に、何にも、人間のしない話をしたのじゃあないわ。
谷  ――一年昔のあなたは、幸福過て、思いのままでありすぎて、僕なんかには眩しいようでした。却って、薄すり雲の湧上った今の方が、遙に人間《ヒューメン》的で、あなたの情熱も純粋さも美しく見える。(みさ子の顔を見る)
みさ子 (漠然と不安を感じる)何を云っていらっしゃるの。美しければ美しいほど猶結構じゃあないの。――さあ、裏へ行きましょうよ、あんなに薔薇、薔薇って云ってらっしゃった癖に……(谷を促す)
谷  じき行きます。然しね、実際、僕は、いつかきっと今日のような時が来ると思っていたんですよ。まるで、軽風に頬を吹かれて、花束を振るようなあなたが、いつか、自分の愛や、人間の愛ということに就て、深い疑や苦しみを味うようになるだろう。そうしたら、始めて、私の、あなたに対して持っている心持も理解して貰えるだろうとね。
みさ子 (疑わしそうに、凝っと谷の顔を見守る)私、自分の苦しみや寂しさを、たとい、誰にでも、利用されてはいられなくってよ。
谷  まるで異う。一つの道から、もう一つ先の、明るい、輝やいた路へ出る手助けを、僕ならさせて頂けると信じていたのです。僕の、あなたに対する愛は――云うことを許されれば――恐らく、あなたの御良人のように、所有慾から生れたものでもなければ、英一君のように、自分の無力を偽善で被うたものでもありません。あなたという人を心にも体にも、美しさ、愛らしさの絶頂に置いて見たい。何からも自由にし、私が陰から照らす光りで、あなたを、漂う金色雲のようにしてあげたいのです。
みさ子 (不快と畏れとを示し)貴方はいやね。そういうことをおっしゃるために、わざわざ薔薇をだしにお使いになったの? 私、こそこそ話は大嫌いよ。それに(力を入れ)――私は、ちっとも、貴方になんか助けて頂こうとは思っていなくってよ。また貴方こそ、私をほんとに愛して下さる方だとも思えやしないわ。芝居はやめ! お友達か? そうでないか? それっきりよ。
谷  奥平さんの存在を、直ぐ頭に持って来るから、あなたはそうむきになるんだ。そうでなく、深く、冷静に、人間の感情生活ということを考えて――抑制と爆発は、決して別々なものじゃあない。いつか……
みさ子 貴方――貴方は、私のしんの心持が解った積りでいらっしゃるの?(静かに、寂しそうに)若しそうだったら、大違いよ。奥平さえ解ってくれないんですもの。私位の年の女が、一旦可愛いと思ったらその人のためにどれほど全心を集注させるか、そのために歓び悲しむか、大抵の男の人になんか、わからないんだと思うわ。選択以上なのよ。たった一人っきりなの。見限って棄てられる愛なんか、まるで、まるで遊びだわ。よかろうが、悪かろうが、その人の可愛い自分の心を、どうしようもないから、苦しむのじゃあないの?
谷  そういう心持も、僕は時間と程度の問題だと思うな。人間が愛されずに生きて行かれますか? まして、あなたのように暖い、愛されたい人が。
みさ子 谷さん! それだけで、もう貴方が、どんなに私から遠い人だかがわかってよ。どうして、私が求めても得られないで苦しんでいる愛を、そう惨酷に摘発なさるの?
――もうおやめなさい。――お友達にしたって、変な、いやな気持になってしまうじゃないの。
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みさ子、歩きかける。
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谷  まるで子供扱いでは、僕も云いようがなくなります。然し――みさ子さん、これだけは云わせて下さい。愛には、勿論、種々様々な形と内容とがありましょう。けれども、結局、鳴らぬ笛は、鳴らぬ笛なのです。――(腰架《ベンチ》から立つ。)それでは、裏へ行って見ますか?
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みさ子、黙って先に立って行く。
殆ど、入れ違いに、下手から、英一、奥平、低声に話しながら出て来る。
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英一 (圧えた声調で)――実際、僕としてこういうことを云うのは苦痛です。一方では、谷との友情を裏切ることになるし、また、貴方に対しては、そんな責任のない交際を始めさせたという点で。けれども、貴方が、僕にかけていて下さる信頼を思うと、つい黙っていられなくなったのです。
奥平 (陰鬱に)いや、有難う。御厚意は感謝します。
英一 (奥平を偸見《ぬすみみ》)けれども、くれぐれ、僕の申上た点を誤
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