迫した必要から、やはりその一つのトマトを欲しく思っているかもしれないなどとは思いもせず、必要の人が多ければ多いほど、我勝ちと猛ってそのトマトを買ってしまうだろう。うちの子にヴィタミンがいるという知識は、やはり科学知識の一つであるのにちがいはない。
しかし、そのとき、その場に居合わせる人の中でそのトマトを一番欲しがっているというよりも一番必要としているのはどういう状況の子供か、というところへ迄、母親としての念が働いてゆくとき、そこには最も初歩の形なりに科学の精神が輝くのだと思う。母性の愛は、科学の精神に導かれて、主我的な我が子への執着からよりひろやかな人間の子の母の心情へまで移って行き得るのである。
真実を儚《は》かない態度とか、同情、愛というような私たち人間の感情を、古風な学問の範疇では道徳、倫理の枠に入れて考えて、科学とそういうものとは別々に云いもし、教えもしていた。仮に二つのものを一つに結び合わして考えたい心持のひとは、二つに分けられたままにただそれを並べてくっつけて云って、結果としては科学知識プラス宗教或は科学知識にプラス道義とかいう形に止った。
人間精神の溌剌さは、現実のうちではそういう不器用なハンダづけをとび越して、科学の精神そのものの道をとおって美であり善であるところへ迄も到達する可能を示している。母親の愛の感情が拡大され得る場合について考えても、これは私たちにとって決して虚構な希望ではないのである。
パストゥールの努力を描いた「科学者の道」という映画が今日なお私たちに与えている深い感銘も、この点にふれているからこそのことであろう。パストゥールが、科学の示した真実についてどこまでも譲歩せず屈従せず其の真実性を守ったことから人類への福祉はもたらされたのだし、感動的な美がその物語のうちに生じたのであって、万一あれがクリスチャン・サイエンスの映画であったら、何の美しさや感動があり得ただろう。
科学教育のことが云われるからには、有益な科学の原理的な知識とともに、無私なよい観察者としての能力と、独創性を発揮するに足りるだけの周密、動的な推理の力とを二本の脚とする科学の精神が、あらゆる男女の心に培かわれてゆくことを願っていいのであろうと思う。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
198
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