的記録である。
地殻の物語は、そこに在る火山、地震、地球の地殻に埋蔵されてある太古の動植物の遺物、その変質したものとしての石炭、石油その他が人間生活にもたらす深刻な影響とともに、近代社会にとって豊富なテーマを含蓄している。岩波書店から出ている「防災科学」全五巻は、近代社会としてはまことに素朴に自然力の下にさらされている日本にとって独特の意味を有すると思う。石炭、石油の物語は鉱物とともに現代の生産の根を握っている天然の産物だが、研究社学生文庫の「我等の住む大地」は科学的なところから地球の鉱物を語っている。文学はこれらの天然の産物が人間社会の関係の中で人に働かされまた人を動かしている姿において描くのは当然だが、アメリカの作家シンクレアに「石油」がありやはりアメリカの婦人作家アリス・ホバードに「支那ランプの石油」があるのも興味がある。アメリカの油田が近代世界経済の鍵である事実をも考えさせると思う。
蝶、蜂、蟻などの物語は第十話第十一話にあるが、この章へ来てフランスのアンリ・ファーブルの「昆虫記」を思い出さない読者はおそらく一人もないだろう。ファーブルの昆虫記は卓抜精緻な観察で科学上多くの貢献をしているし、縦横に擬人化したその描写は、それらの本が出た十九世紀の末から今日まで、そしてなおこれからもあらゆる年齢と社会層の読者を魅してゆくだろうと思われる。けれども文化の感覚が成長して、科学の面白さと美しさとの独自な本質の理解が私たちの生活にゆきわたって来るにつれて、ファーブルが、いわゆる文学的な表現にこって、昆虫に人間社会そっくりそのままの仮装をさせた努力をむしろ徒労として感じるようになって来ることは争えまいと思う。そして、今日かあるいは明日科学の常識がそこまで成長したということのかげにこそファーブルの努力の意味が生きているというのは人類の知識の蓄積されてゆく上の何と感慨深い過程だろう。
第十四話、毛生動物の話は、やはりアメリカの生んだ著名な野生動物観察者であったシートンの「動物記」の面白さを懐しく想起させずにはおかない。シートンの熊の生活の報告、狐の話その他何と鮮明に語られていることだろう。ところが、シートンの相当な読者であった私は、大きい疑問をこの著者の報告の科学的な良心に対して抱く一つの物語をよまされた。それは、バルザックが「砂漠の情熱」という題で書いた牝豹とアフリカ守備兵のロマンティックな短篇を、シートンがその筋のまま物語っていることである。コフマンのこの本も猿が人間生活の感情にある理解をもつことは語っているが、アフリカの牝豹が守備兵を恋するというようなことは、科学の見解に立つ動物学者に肯定さるべき現実だろうか。シートンの生涯の努力がこの一つのために決して少くない信用を喪わせられていることを遺憾に思った。改造文庫で出ているジャック・ロンドンの「野生の呼声」や「ホワイト・ファング」は犬や狼を描いた文学作品の出色のものであるし、キプリングの「ジャングル・ブック」(岩波文庫)もなかなか豊かな動物と人間の絵巻をひろげている。ハドソンの「ラプラタの博物学者」(同上)は、野生鳥類の生彩に溢れた観察、記述で感銘ふかいものである。「日本の鳥」(冨山房百科全書)は中西悟堂氏によって、どのような日本独特の鳥とそれに対する心を描いているのだろうか。
コフマンは、猿と類人猿の話につづく次の章で変った人種の話の項を展開しているが、私たちはこれらの部分では、おのずからダーウィンの「種の起源」(岩波文庫)と「人及び動物の表情について」(同上)という同じ科学者の感興つきない研究へひきつけられる。さらに今日常識が遺伝についてある程度の知識を求めているからにはメンデルの「雑種植物の研究」(同上)も、決して身に遠い著作ではないと思う。
このように遺伝の作用をも内にはらむ人間の生命の生物としての構成の微妙さを私たちに知らせるのは生理学であろうが、H・G・ウェルズが書いた「生命の科学」(平凡社)も、それらの科学の業績に立って書かれた本として読まれてもよいものであろう。人間は生物として自然科学の対象であるばかりでなく、社会をつくって来た民族の歴史からも見られる意味で、イギリスの人類学と民族学の教授ハッドンの書いた「民族移動史」(改造文庫)は、地球の面に行われた人類の移行の理由と結果とをある程度まで知らせると思う。それとともに冨山房の百科全書の「言語地理学」は、あながち言語学者だけによまれるための本ではないであろう。
太古のエジプトでは、僧侶が人の病をいやす役目もはたしていたという文明の発端から、人類の医療の父として語られるヒポクラテスの話におよびさらに、ウィリアム・ハーヴェーの血液循環の発見があり、やがてパストゥールによって細菌が発見されたのも、ジェンナーの種痘の試みも、モルトンによる麻睡薬の試用も、すべて十九世紀の人々の偉業であるということは、日本の徳川末期に、シーボルトその他によって西洋医学が導き入れられ、菊池寛の小説「蘭学事始」のような情景をも経て今日の医療に至った歴史とてらし合わせて、尽きぬ味わいがある。冨山房の百科全書で出されている「ロベルト・コッホ」「緑の月桂樹」(西洋の科学者たち)岩波新書の「メチニコフの生涯」はいずれも、それぞれ感銘浅くない本である。「ベルツの日記」(岩波)「日本その日その日」(冨山房)は明治開化期の日本の文化のありようと、後に日本の科学の大先輩として貢献した人々の若き日の真摯な心情とを、医学者としてのベルツ、生物学者としてのモールスが記述していて、文学における小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)、哲学のケーベル博士、美術のフェノロサの著述とともに、私たちにとって親愛な父祖たちの精神史の一部を照らす鏡をなしている。
「科学の学校」もいよいよ終りに近づいて、著者コフマンは、何という簡明具体的な表現で、電気に関する人智の進歩のあとを辿っていることだろう。今日の少年少女たちの日常のなかには一つのスウィッチの形で出現している多種多様な働きの電気というものを、人間生活にとりいれ、こわいものから便利なものにかえて来た道が、終始一貫して全く実験の立場からもたらされ導かれたものであることを、コフマンは巧まない健全さで明らかにしている。フランクリンの凧の逸話は人口に膾炙《かいしゃ》しているが、一七五二年の九月の暴風雨のその一夜にいたる迄には、ギリシャ人たちが琥珀《こはく》の玉をこすっては、軽いものを吸いつけさせて遊んでいた時代から二千年もの人類の歴史がつみ重ねられて来ている。電気――エレキへの科学者としての興味をひかれ、実験を試みたことから、幕末の平賀源内が幕府から咎めを蒙った事実も忘れ難い。科学博物館編の「江戸時代の科学」という本は、簡単ではあるが、近代科学に向って動いた日本の先覚者たちの苦難な足跡を伝えている一つの貴重な本である。
それにしても、「科学の学校」を折角訳された神近さんが、原本の後半をすこしのこして「物理の発達」という章を割愛されたというのは、残念千万なことだったと思う。物理のことが語られていたのなら、あるいは数学の発達の歴史の物語も、同じように割愛された頁の中に入っていたのではなかっただろうか。数学の方は、ホグベンの「百万人の数学」上下(日本評論社各二・三〇)が出版されたし、岩波新書に「家計の数学」(小倉金之助氏)同じ著者の「日本の数学」、また吉田洋一氏の親しみぶかく数学の原理を語っている「零《ゼロ》の発見」(岩波新書)などがあるけれど、物理の物語は岩波文庫にファラディーの「蝋燭の科学」のほかフランスの数学者物理学者天文学者であったアンリ・ポアンカレの著述が三冊訳されているばかりで、ポアンカレの述作は、初歩的な読者にとってそう理解しやすいというものではない。
私たちの物理学の世界に対する知識は現象にとりまかれつつ相当乱雑なままに放られていて、たとえば岩波新書の「物理学はいかに創られたか」(石原純訳、アインシュタイン著)を、表現が砕けていると同じかみくだく理解の力で読みこなせるものが、私たちの周囲に何人あるだろう。冨山房百科全書の「子供の科学」の物理についての啓蒙的な記述があるいはコフマンの「科学の学校」の抄略された頁の幾分かを補充する役に立つかもしれない。庄司彦六博士の「文化の物理学」はそれよりも高い程度で常識に近く扱われている。
アインシュタインはこの「物理学はいかに創られたか」原名(物理学の発展)の序文できわめて示唆に富んだ数言を述べている。「この書物を書く間に、私たちは之をどんな人たちに読んでもらうべきかについてかなり論じ合い、またわかり易くすることについて苦心しました。読者は物理学や数学の具体的な知識を何ももっていなくとも、適当な思考力をもってさえいればよいと思います」「科学の書物はどれほど通俗的であるにしても、小説と同じようなつもりで読んではならないのが当然です。」
一冊の「科学の学校」を読みながら、そのおりおり念頭に浮んで来た何冊かの本をノートしただけのこの短いメモを、本当に科学に通暁した人たちが見たらば、その貧弱さ、低さ、範囲の狭さを、どんなにおかしくまた憐れに思うことだろう。
私は全くへりくだった心持でいわば私たちの知らなさの程度を明らかにすることで、このリストがいつか段々補足され質を高められたものとなり、いくらか有益な読書の手引きとなって若い婦人たちがそのより年若い弟妹たちに与えるにたえるものとなることを願っている次第である。そして、ある年月の後、今日の若い父親たちよりはいささかその常識の内容をひろやかに多様なものとしたより若い母たちが、自分たちの可愛い小さい娘や息子へのおくりものとして、これらのリストの改良された見出しの中から書籍を選ぶ時があるとしたら、愉しい現実的な期待といわなければならない。
アインシュタインは、世界に卓越した現世紀の大科学者の一人であり、慰みに弾くヴァイオリンは聴く人の心を魅するそうだが、何年か前書いた感想の中に、忘られない文句があった。この科学者は「私は婦人が高度な知能活動に適するとは思わない」という意味の言葉を書いているのであった。女である私たちは、大科学者のこの言葉によって一度は確にしょげるのだけれど、やがてこころひそかな勇気を自分たちの内に感じると思う。何故なら、すべての近世科学の歴史は、たとえばガリレイが十七世紀の地動説をとなえたとき、宗教裁判で罰せられ生命さえ脅かされた事実をつげている。
しかし、地球は動いているものであったから、その事実はガリレイの死後にやがては承認されることとなった。女も人類のために貢献するために生きたいという希望、そのために知能をもゆたかにしたいという希望を抱いて努力している事実は、いわば地球の動きのようなもので、いつかはそれが承認され具現する可能に向って、今日の文化はジグザグなりに動いていると思う。人間の社会の歴史のある発達の段階では、アインシュタインのような卓絶した頭脳の人でも、やっぱり男としては女を見る従来のある先入観からまったく自由になりきっていなかったということを、二百年後の若いものたちはどんな微笑で回顧するだろうか。[#地付き]〔一九四〇年八月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「新女苑」
1940(昭和15)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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