じられているという信じられないような事実もある。コフマンはアメリカの人だから、自分の国の一面に存在するそういうおくれかたを憂慮する心持もつよいであろう。そんな愚かな偏見に煩わされない若者たちが、自然と人間との現実をはっきり把握して愛する大人として現れることを切望しているだろう。子供のためにコフマンがたくさん執筆している心持、この「科学の学校」もそういうものの一つとして書かれている心持、それは私たちにも同感をもって理解されるのである。
コフマンのもう一つの特質として、この本の中ででも、人間の精神的な物質的な努力が文化を進めて来た事実をしっかりと理解してそれを語っている点である。単純な楽天で、人間万歳を唱えているのではなくて、刻々の個人と社会との努力の価値を大切なものとして評価し、人間が理性的なもので、その判断と行動とで人間自身を救うものであるという根本の信頼を失わないところが、著者の意味ふかいねうちである。「科学の学校」の中で「氷河」について書いている部分などにも、著者のこの生活の意欲は現れている。氷河が太古に地球の半を包んだように、何千万年かの後にはまた地球をひろく被うようになるかもしれない。しかし、そうなれば、人間は南へ移住することができる、とコフマンはいっている。この言葉はわかりやすい簡単な言葉だけれども、これだけの一句にも、やはりあり来りの人たちとは少からず異ったコフマンの人間意欲の肯定がこめられている。なぜならこれまで何百冊かの本を著している科学物語の著者たちは、氷河についてそういう予想を語るとき、いわゆる科学的態度でその予想を告げたっきりで、それを読んだものが、じゃあその時人間はどうなるんだろうと思わずにいられない、当然の疑問には答えずそれを無視している場合が多い。さもなければ、人間も自然の中に生れたものであるという関係からだけ自然の力と人間の交渉を見て、人間も窮極には自然に敗けるのが宇宙の必然であるという風な、科学的らしく見えるが実際は観念的な宿命論のような結論を引き出していることも少くない。やがて地球が亡びるなら、今私たちが短い一生を一生懸命に暮したって何になるだろう、といった文学者が日本にもあったが、コフマンの地球の年齢について説明している話をよめば、そんな哲学めいた感想も実はたいそうきまりの悪い無知から出発していることがわかる。
コフマンもこの
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