も見なかった。
ただ、時を切り、厭な寒気と、いくら口をあぷあぷさせても吐き切れない息の苦しさばかりが、体を震わせる。彼女は、薄すり閉じた瞼の下で、顫える寒天のような灰色の空間を見た。下から上へ、下から上へと、無数に真青な焔が立って行く。
お恵さんが、常願寺の裏から、吊台で運び返されたという急使を受けた時、お幾の愕《おどろ》きは、想像も許さないものがあった。
結いかけていた髪もまとめず、くるくる巻のまま、体中で震えながら彼女が馳けつけた時、迎えたお恵さんは、もう、
「よくいらしって下さいましたね」
と云って微笑む、今朝までの彼女ではなかった。
冷たく堅くなった、一人の淋しそうな婦人の遺骸が、落付き悪く、三年前、良人が横わったと同じ場所に臥っているのである。
唇迄蒼白くなり、お幾は、口も利けなかった。
部屋には、偶然通り合わせて、人だかりのした行路病者が、お恵さんであるのを見つけたという、矢張り、同じ信心仲間の年寄がいた。妹が死んだとなっては、さすがに棄てても置けまいという風に、常は冷酷な兄の、卑しい大きな顔も見える。
然し、お幾は、それ等に、適当な弔みを云うことさえも忘れた。
こんなことがあり得るだろうか。こんなことが、あってよいものだろうか。
膝で進んで顔被いをとり、さほど面変りもしない友の容貌を見守ると、始めて彼女の眼からは、とめどない涙が流れ出した。
相変らず女らしい形よい額つき、つつましさそのもののような眉。道ばたで死のうとし、最後に何が彼女の心に閃めいたのか、色のない唇には、実に綺麗な、しかも、ぞっとするほど神秘的な微笑のかげが差しているではないか。
名を呼ぶにはあまり悲しく、礼をするにはあまりなつかしく、お幾は声をあげて泣きながら、額を、細い友の手にすりつけた。
逆さまにかけられた黒縮緬の裾模様からは、ほのかに樟脳の香が立ちまよう。
皮膚から心までしみ徹すような冷たさと、涙の熱さを感じながら、お幾は、心の裡で、最後の友愛を友に誓った。若しお恵さんに、一言口を利くことが出来たら、彼女は、どれほど、独りの娘のことを云うだろう。どんなに痛わしがり、不幸な縁を歎くだろう。
たとい、口は永久に喊《とざ》されても、お幾には、耳に囁かれると同様、強く、はっきり、友の心は感じられた。自分にかけられた沈黙の裡の信任を、お幾は、天地の間に読み取っ
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