べき小さい気休めの小枝にもどんづまりまで皮肉と諷刺との鎌を当てていて、彼の涙と笑いの果いは、一種の虚無感が連っているようでさえある。
イリフ、ペトロフの「黄金の仔牛」の世界は、そういう意味では、ゴーゴリの世界と全くちがう。訳者は「黄金の仔牛」の世界のユーモアを「上からの笑い」だと表現している。「上からの笑い」の真意は、勝利者が上から敗北者にあびせかけた笑いであるというよりは、現実社会の腐敗や停滞、偽瞞を裏まで見とおしている社会生活への鋭い洞察者が、その明るくてかげのない実践的な生活態度と遠大な見とおしに立って、周囲の虚偽卑劣を描きつつ、おのずから笑殺することで、社会的批判を表現しているのだと考えられる。
そこから、ゴーゴリの諷刺と本質的にちがいつつ、アメリカのナンセンスとも異る新種の快活、辛辣が生じている。
そんなにゴーゴリの泣き笑いとはちがう若く確信に満ちた哄笑が響いていながら、なお、この「黄金の仔牛」の読者が、しばしば、ああイリフ、ペトロフは、さすがゴーゴリの出た国の人間だけある、と思わざるを得ないというのも、実に意味ふかい実感だと思う。所謂ロシア気質というものは、イリフ、ペトロフ両人の極めてダイナミックな社会精神と感情の活動を一貫してどこにも古風なバラライカの響となってつたわってはいない。彼等は新しい人間たち、新しい文学のつくりてである。それにもかかわらず、「黄金の仔牛」の全篇は、そのどことも云えない到るところに、イリフ、ペトロフが決してフランス人ではない味、イリフ、ペトロフが決してドイツ人ではない味というものを含んでいる。云いかえれば、ゴーゴリの諷刺は、今日のロシアの歴史の現実のなかで、成程こうも生きかわり得たのか、と感歎する心持をつよめられるのである。
チャイコフスキーが、世界の音楽をゆたかにした古典のロシア的なものは、直接にゴーゴリと並べては云えないけれども、ゴーゴリの諷刺が「黄金の仔牛」によって生れかえられ高められたようには、まだ何人によっても――ショスタコヴィッチによってでも高められていないのではないだろうか。
芸術における民族の特質の微妙で複雑な消長が、ここからも私たちの心に訴えて来ると思う。民族性を古典の規範にしばりつけて考える誤りも明白に理解されるし、さりとて、その新しい展開が単に技法上の新展開だけで齎《もた》らされるものでないことも、痛切に考えられる。芸術の素質として民族に特有なものは、いつも具体的であって、それがさけることが出来ない歴史の波、社会の発展の段階の明暗を映していることが、十分芸術家の生活感情として把握されなければならないのだろう。
音楽の歴史と諷刺のことも何となく知りたいことの一つである。文学の世界でも、絵画の世界でも、強烈な現実性と批判の精神と手法として大胆なディフォーメーションを必要とする諷刺は、そう誰にも創り出せるものでなかった。音楽が芸術であるからには、美の一種目として諷刺を避けてはいないのだろうと思う。私たちはよく、諧謔的にと添えがきされる場合を知っているが、諧謔は感情の性質として諷刺と同じではない。妥協的であっても諧謔的では、あり得るのだから。偉大な作曲家たちの精神のなかで、諷刺の本能はどんなに半醒の状態におかれていたのだろう。過去の雄々しい作曲家たちが、平民の生れで、諸公たち、諸紳士淑女たちの習俗に常に居心地わるがりながら、しかも僅に、その諸公、諸紳士淑女をもよろこばせる範囲の諧謔に止っていたのだとすれば、明日の作曲家たちの宇宙は、この方面にも勇ましくひろげられて行くはずなのではないだろうか。ティムパニーが、浄らかな諷刺の哄笑で鳴りわたるよろこびは、歴史とともにいつの日にか期待されていいのではないだろうか。[#地付き]〔一九四〇年七・八月〕
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「フィルハーモニー」
1940(昭和15)年7・8月合併号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
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