な要素のことがいろいろ問題になっているが、私たちにとって関心をひかれる点は、やはり、この音の記号の上での日本らしさの試みが、どのように音の流れそのものの生命が語る日本らしいものに成熟させられてゆくかということでないだろうか。
日本独特の日本らしいものというとき、今日の日本らしさが、どんな風に音楽には生かされてゆくものだろうかということも、難しくてしかも避けられない芸術家への課題だと思われる。
いろんなそんなことを考えているとき、中央公論社から出している現代世界文学叢書の一冊の「黄金の仔牛」を読んだ。これはソヴェトの諷刺小説で、以前「十二の椅子」という諷刺小説を書いたイリフ、ペトロフ合作の長篇である。ジャーナリスト出身のペトロフが素材をあつめることを主に働き、詩人であるイリフが作品として書きあげてゆくという、新しい仕事ぶりで七年ほど前に完成された作品である。
主人公はオスタップ・ベンデルという山師で、北極飛行で世界に有名なシュミット博士の息子と称するいかさま師である。このベンデルが、永年の夢として抱いているリオ・デジャネイロ市へ永住するための資金を稼ごうとして、数年来あらゆる悪辣な秘密手段をつかってこっそり金をためている「ヘリクレス」コンツェルンの会計係コレイコから、その金を捲き上げようとする。その過程にイリフ、ペトロフは極めてユーモラスで辛辣で明快な調子で、ソヴェト社会の旧い考え旧い生きかたの諷刺を行っている。オスタップ・ベンデル自身の山師としての社会的存在の意義も、彼の哀れな失敗そのもので容赦なく批判されているのである。
だんだんこの小説を読んで行って、大変面白く思われるのは、ロシアが生んだ世界的な諷刺作家ゴーゴリの作品の世界と、この「黄金の仔牛」の世界の違いかた、同時にそこにある共通性であった。
ゴーゴリの作品の価値は世界古典のうちに一つの峰として聳え立っている。彼の涙と苦しい笑いとひそめられた憤の震える調子は、アメリカの諷刺作家であったマーク・トゥウエンの作品などと全く異った悲傷な諷刺をつくり出している。マーク・トゥウエンの諷刺は、その基調に何と云っても辛酸をなめつくした後に、新興のアメリカ社会で世俗の生活で安定をかち得たその作者らしい妥協、気やすめがある。ゴーゴリの作品にはそれがない。悲哀の底が抜けている。作者としてのゴーゴリは、わが心のよりすがる
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