ら見るとその辺の樹も太くなったようですね」
「同じ信託地の内でも、あっち側は低いし、時代のついた木なんぞ一本もありませんから、さて建てるとなると、庭が大変です」
女は都会人らしく気味悪そうに空地の入り口に袂を掻き合わせて佇んでいた。裏の松林からときどき松籟《しょうらい》が聞こえた。雑草の蔭に濃い紫菫が咲いていた。
見積りも面倒なく済んで、地形《ちぎょう》にとりかかった。石川の経験ではすらりと進み過ぎたくらいの仕事であった。実を云えば、見積書をもって行って手金を受取るまで、石川は大して当にしていなかった。それほど話しの切り出された抑々《そもそも》から何だか皆の心持が単純であった。――永年の宿望を遂げて、貯蓄した金でさて一軒建てようという人々のように、騙《だま》されやしまいかと心配したり一円でも廉くていいものを使いたいとか、こせついて癪に触るようなさもしいところが、飯田の奥さんにはちっともなかった。――が、後見の手塚準之助が、あのひと、あのひとと呼ぶ彼女は、世間で云うままの内容において奥さんなのであろうか? 息子を持った中年の女を他に呼びようないので便宜上の呼び名であるのだろうか。せきは、一言の下に、
「玄人さお前さん、一目見たってわかるじゃないか」
と断定した。石川は、南洋の無人島で終日遙かな水平線ばかりを見詰めていたときから、上瞼が少し重たく眼尻のところで垂れ下っている船乗りらしい眼付になった。その幅広な視線で、元気な石女《うまずめ》の丸まっちい女房を見下しながら、
「それは分っているさ……だがね」
「だがね、どうなのさ……」
「……ふむ!」
「いやだよこの人ったら……」
女房は、やがて、
「でもいい装《なり》をしてなすったねえ」
と云った。
「何でもなさそうにあんな指環はめていられる身分になりたいねえ」
工事が進むにつれ、原宿に住んでいる手塚が二日置きくらいに見廻りに来た。一緒に幸雄という息子も来るようになった。二十三四の母親似の若旦那であった。角帽をかぶっていた。
「若旦那――大学ですか」
「ああ」
「本郷ですか」
「うん」
「御卒業はいつです」
「出してくれりゃあ来年さ」
面長で顔の色など、青年にしては白すぎた。いかにも母親の注意が細かに行き届いた好い服装をし、口数の尠い男だが、普請は面白いと見え、土曜日の午後からふらりと来て夕方までいて行くことなどあった。母親もそうだが、この大学生にもどこか内気に人懐こいようなところがあった。草を拉《ひし》いで積み重ねた材木に腰かけ、職人達に蕎麥《そば》を振舞い、自分も食べた。
「まずい蕎麥だなあ」
「そりゃ市内からいらしっちゃ蕎麥や鮨は駄目です」
「こんなのっきゃないのかい」
「何にしろ一軒ぎりですからね」
「ふうむ――いい店出したって立ち行かないんだろうね」
「顧客の数がきまってますからね――若旦那、御卒業なすったらこちらからお勤めですか」
幸雄は、植える松の根を、職人が多勢かかって締めているのを見ながら、
「勤めなんかいやだねえ」
と答えた。
「何です? 法律ですか御専門は」
「経済だよ」
「――実業家ですね」
「…………」
幸雄は、母親のことを石川に話すに、決してお母さんとか、それくらいの年頃の若者らしくおふくろなどと云わなかった。新橋、新橋と云った。
「新橋も今年の夏はこっちで暮らしたいらしいよ、間に合うだろうかね」
現在新橋に住んでいるのでそう呼ぶのかと石川は思った。すると或るとき、原宿の手塚が、
「あの人も、元は新橋で鳴らしたものさ――太郎って云ってね」
と云った。幸雄は或る身分の高い人との間に生れた一人息子で、相手の死後あり余る手当で生活しているのであった。
「この家だって、幸雄がいずれ一家を構える場合を考えて建てる気になった訳さ。小さいとき引き離されていたりしたから幸雄の方じゃ大した気持もあるまいが、生んだものにして見れば親一人子一人の境涯だからね」
なるほどそういう心持であったかと、石川は二間続の離室に好意を感じながら図面を見なおした。
三日経つと立前《たてまえ》という晩であった。
夕飯をしまって一服していると、
「今晩は」
と若い女の声がした。
「どなた」
女房が、流しの前から応えた。
「石川さんはいらっしゃいましょうか」
「ええおりますが――どちらさんです」
手を拭き拭き出て見ると、それは女中を連れた飯田の奥さんであった。
「おやまあ失礼いたしました、さあどうぞ」
その声に石川も顔を出した。
「や、大変おそくお出かけでしたな、どちらからかお帰りですか」
飯田の奥さんは大儀そうな風で、黒いレースの肩掛けを脱した。
「この間じゅうはだんだんどうもお世話様でした。私もちょくちょく来たいとは思っても何しろ遠いもんですからね」
茶など勧め
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