かけようとした。その時、傍に立っていたのぶ子は、何を思ったのか、いきなり二足三足近よって、殆ど自分の口と水平にある母親の耳の中に、
「阿父さんは、万世橋の沢屋にいるのよ」
と、せわせわしく囁いた。
「さあ、お早く!」
車掌が、紐を持って急き立てる。
おくめが、娘の顔を見返す暇もなく、電車はまた上下に揺れながら、広い外壕の通りに沿うて駛《はし》り出してしまったのである。
「あまりいそいだので、のぶ子は我知らず『お父《とっ》さん』と云ってしまったのだろうか」
二つも三つも乗りてのない停留場を飛して行く電車の、ピリピリ震えるガラス窓に、ぼんやり自分の顔を写し、おくめは「阿父さん、阿父さん」という響ばかりを、全身の内に感じた。心は強く一点に捕われ、彼女は、まるで下駄の下にでも、磁石で自ら方向を覚るように呆然、下谷まで帰って来たのである。
四
その夜、おくめは、明方までまんじりともしないで床の上に眼を醒していた。
奥の部屋はひっそりと寝鎮り、電燈を低く下した彼女の小室ばかりに、厳しい冬の夜気がしんしんと迫って来る。
深く顎まで夜着に埋り、小さい木枕に頭を横えて思いに耽っていると、おくめは、自分が今どこにいるかさえも忘れるようになった。
「沢屋、沢屋、沢屋にあれ等の父親がいるのだ」ちらりと一言耳に挾んだだけで、彼女は、この、恐らくあまり大きくない旅館の表構えの様子まで、まざまざと目に浮んで来るような心持がした。
「何をしに東京へ出て来たのだろう――」
彼女と一緒にいた時分から、彼が東京へ来るのは珍しいことではなかった。昔気質の、律気一遍な祖父の目を盗むようにしては、口実を拵えて東京に来る。そして、何をしているのか、商売の向《むき》は一日二日で済んでも、迎えの手紙が行きそうになるまでは、決して戻って来ようとはしない。――
東京といえば定って、朝二番の上りで出掛けて行った良人の姿がおくめの心に髣髴《ほうふつ》として甦って来た。近所などでは滅多に見かけない粋《いき》な服装をし、折鞄などを小脇に抱えた後姿を、彼女は、幾度、嫉妬と愛誇《あいこ》とを混ぜ合わせた心持で見送ったことであろう。
別れてから、十五年になることを思えば、彼も、もうよい年寄になっている筈である。けれども、おくめの思い出すのは、いつも三十五歳の男盛りともいうべき良人の姿であった。ま
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