て、作者は、佐橋の朝鮮までの高とびの因子が、到るところに垣を結っている息苦しいその時代の君臣関係の、臣として求められる限界性への反作用という点でテーマを扱ってはいないのである。結われてある社会的な垣は垣として存在を肯定して見られているのである。
「高瀬舟」は、大正四年の作で、鴎外の歴史ものとしては、どれよりもはっきり、社会通念への疑問をテーマとしてかかれたものと思われる。「高瀬舟縁起」という文章で、鴎外は「翁草」によっているこの短い作の中に「二つの大きい問題が含まれていると思った」ことを述べている。「一つは財産というものの観念である。」「今一つは、死に掛っていて死なれずに苦しんでいる人を死なせてやるということである。」即ちユウタナジイの問題である。高瀬舟の罪人喜助の場合はそれであったように思われる。その二つの点を面白く思って高瀬舟が執筆されたのであった。
「高瀬舟」の書かれたそれらの動機を今日に見る面白さは、「佐橋甚五郎」あたり迄の作品では、武家気質そのものが個人の主観の内容をも表現の形式をもなしているままに歴史を描いて来た作者が、「高瀬舟」では通念の代弁者である小役人庄兵衛に対して、全く個人の主観に立って安心立命をも得ており、弟殺しとして罪に問われたことも自分には十分わかっている真の動機からその心を腐らせるものとはなっていない不幸な喜助の個人の必然としての主観の世界を正面から扱っている点である。
 先にふれた三つの物語の時代より、この「高瀬舟」はずっと後代の物語であり、一方は武士社会のことであり、これは姓も持たない白河楽翁時代の江戸の一窮民の運命である。鴎外が、当時の江戸の庶民生活のありようの一典型として喜助のめぐり会わせを追究していないとこも、一方には注目される。作者を動かしたつよいモティーヴの一つであるユウタナジイの問題にしろ、同じ事情が武士の兄弟の間におこったとしたら、当時の通念はそれを庶民喜助の場合に対してと同様に判断したであろうか。兄と弟という順を逆にして弟と兄とのことであったら、どうであったろう。これらの点についての社会の判断は明らかに武士と庶民に対して違った標準で見られたであろうと思える。弟と兄と逆になればおのずと違ったものの在ったろうと思えるのも、時代が封建であったからである。
 財産についての観念も、扶持もちの侍と喜助とでは全く別世界のものである
前へ 次へ
全13ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング