ルから七十ドルに切り下げる恐慌に対して、利害の衝突する二つの資本主義国家間の泥仕合的排外主義に対し、ピオニイルの養成にも熱誠を示すというようなのでは決してない。
 プロレタリアートの心持を書こうとして客観的現実と主観とが非弁証法的な分裂をとげたというのではない。
「亀のチャーリー」は、生々したたくましい現実としてのプロレタリアートの日常に作用している革命性、そのための組織など書いていない。ましてや、一九二九年来の恐慌が一層深刻化し、資本主義の局部的安定さえ今は破れ、資本主義国家と資本主義国家との衝突の危機が切迫している現段階のプロレタリアートのピオニイルという最も革命的組織的なものにふれつつ、それを最も非組織的に非現実的に描くことによってプロレタリアートの力を背後に押しかくし、亀の子、子供、子供ずきの孤独な移民チャーリーと市民的な哀感をかなでている。
 作者は「移民」という小説を近く発表するらしく広告で見た。しかし「亀のチャーリー」のように、主題の把握においてプロレタリアートの闘争から切りはなされ、プロレタリア作家に課せられている課題から逸脱したものであるならば、「移民」の書かれる革命的意味もまた少ないであろう。

 作家が一つの作品から次の作品へと正しい発展をとげてゆくことは、困難な努力のいる仕事である。ブルジョア作家たちは、その本質から、作家としての完成を個人的自己完成としてしか理解し得ないため、その努力を取材から取材への一見めあたらしげな転々たる移行およびその扱いかた、書きかたの練達へと集中する。彼らはいかに数多く一つから一つへと書きまわろうとも、ブルジョア的世界観の上に立っている以上主観の真の意味における発展はない。いきおい陳腐な本質の粉飾としての形式主義に、芸術至上主義に堕さざるを得ない。
 この点プロレタリア作家は全く根底を異にしていると思う。プロレタリア作家こそプロレタリア階級の発展の各モメントとともに発展し得る。プロレタリア作家が唯物弁証的把握によって自身の階級の当面の革命的モメントを正確に政治的に把握し得さえすれば――社会的矛盾における複雑活溌な相互関係とそれに対して階級として働きかけるプロレタリアートの革命性を具体的にとらえ得さえすれば、作品における主題の積極性、発展性は革命の進展につれて押しすすめられ得る。この意味でプロレタリア文学および作家の
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