作家のオルグ的活動の面はさらに多面であり、作家としての技術を組織的活動に直接活用し得る面も数多くある。それはサークル活動である。「樹のない村」について見ても、このプロレタリア作家は、新しく「やま連」を中心とする部落の闘争組織ができようとするにあたり「明日の夜になると我々の故郷にも赤い旗が立つ」と抽象的表現で結び、「どうだ、この蚊のひどいこと!」と手紙を終っている。蚊よりも同志Tに語るべきことがあったはずだ。オルグ的役割をつとめる作家であるならば、その新しい革命力の影響を大衆化するために当然、「部落新聞」の発行について考え、その具体的な指導が「ひどい蚊」に代って彼の注意を占めたはずではなかったろうか。
 以上三つの作品、特に「樹のない村」の検討は、われわれの関心、反省を、自身のプロレタリア作家としての活動の吟味に導いて来る。作家同盟で目下とり上げられている組織活動と創作活動の統一の問題にふれて来るのである。
 十月号『プロレタリア文学』に鈴木清がこの問題について「一歩前進か二歩退却か」という論文を書いている。この論文はいうべきことのまわりをまわりつつ、ついにかんじんの環をつかみそこねた論文である。筆者は、繰返し説得している、組織活動と創作活動との統一はプロレタリア作家の実践によってのみ解決されるものであると。そして、その実践とは「より一層の精力的な組織的活動と創作活動との交互関係において始めて解決されなけらばならず」これは「統一され得ない問題ではなく、統一されざるを得ない問題である」といっている。しかし、筆者はその実践の経験を真に「精力的な」「交互関係」において統一させ、われらの世界観を豊富ならしめ、前衛作家として発展せしめ得るものは、ただ一つそれら「精力的な」「相互関係」を通じてわれらに客観的真理の概括を与えるところの、明確な政治的把握あるのみであることに言及していない。この問題の具体的な、日常的な解決は、とりもなおさず、芸術における政治の優位性に対する正しい階級的理解なしにはあり得ないのである。鈴木清はこれを基本的環とせず、あれやこれやの必要条件の一つとして理解したため、論文は実践的な推進力を失ったのである。

 今日、プロレタリア文学運動において、組織およびその組織活動を否定するプロレタリア作家はいないであろう。文学運動が文学運動としてあり得る鍵は組織活動にある
前へ 次へ
全16ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング