たちが若い先生の主観的な亢奮ぶりにキョトンとすると、彼は「肥えたるわが馬、手なれしわが鞭」と「精一杯の声を張りあげて歌い出した。」子供たちも「忽ちこれに同化されて歌い始めた。労働の歌が労働するものの心を融合し統一した」と作者は楽観している。
師範卒業生佐田の安直ぶりが、階級的発展の端緒としての意味をもつ未熟さ、薄弱さとして高みから扱われているのではなく、作者須井自身にとっても弱い一点であることは、「幼き合唱」のところどころの文章にうかがわれる。大体作者はいわゆる筆が立つという型である。したがって字面をおしみなく並べてスラスラ読み流させる傾向であり、描写は立体的でなく叙述的である。文章に調子がつくと作者はよみ下し易い美文めいたリズムにのるのである。たとえば「絶望があった。断崖に面した時のような絶望が。憤激があった。押えても押えてもやり切れぬ憤激が。惨めさがあった。泣いても泣いても泣き切れぬ惨めさが。恩愛も、血縁も、人格的なつながりもない……(原文伏字)から死命を制せられている自分!」うたい上げられた調子はあるが沈潜して読者の心をうち、ともに憤激せしめる迫力は欠けている。
皮相的な、浮きあがった表現の著しい例をわれわれは、この小説のクライマックスともいうべき「共同視察」の場面に発見する。ドヤドヤと視察者が入ってくる。佐田はさすがに「厄介なことになった」と思うが、あくまで自由な質問応答をやり、「活溌にやることによって彼の発見し、実行しつつある新しい」教育法を「示してやろうと思った。」佐田の一生にとって、即ち小説としての芸術的概括の点からいってもこの瞬間は緊張した、真面目なるべきモメントである。それにもかかわらず、作者は「彼はちょっと悲壮な気持で第一声をはなった。『では質問に入りますから、判らぬところがあったら……』」云々といってすぎている。この一句で真摯なるべき現実が不快にくずされている。悲壮[#「悲壮」に傍点]という複雑な人間的感情の集約的表現は、ちょっと[#「ちょっと」に傍点]という小量を示す形容詞によって、軽佻化され、なおざりのものとされ、読者は作者の浮腰を感じるのである。このような例は、この部分一ヵ所ではない。
「幼き合唱」は濫費されている字数にかかわらず何故に薄手な、貧弱な作品を結果したか? 作者は日本の封建的ブルジョア教育との闘争を、プロレタリアート解放の
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